2018.08.08 加藤清正歴史研究会
加藤忠廣「塵躰和歌集」全訳(45)英数研究セミナー加藤敦
同(五月)十二日
187.しゃくはちの一とよきりなる世の中に うきふししげき音をのみぞきく
(しゃくはちの ひとよきりなる よのなかに うきふししげき おとをのみぞきく)
(釈)尺八の一節切(ひとよぎり)のような細く狭い世の中にも、憂き節のつらい音だけがしきりに聞こえてくる。)
忠廣解説
この哥の作意 同じ年の四月末日の夜に、尺八を吹きながら世の中のことをよくよく思いめぐらしていると、この竹の一節の長さしかない中でも色々な音色を聞くことができると思うと、人間一生の浮世の生活というものもこれと同じだと思ったのだ。長くもない一生に、思うようにならず、このような思いもしなかったことで路の奥里に来て、世の中をつらく苦しいと思いながら生きている様は、あたかも色々なうき音を聞く度ごとに、つらいことばかりで月日を送る数奇な我身の悲哀や寂しさは、この塵躰和歌集に書くのみである。口に出して言うことはできない。
訳者解説
この解説は忠廣公の本音を語った言葉として貴重だ。実高九十七万石と言われた肥後の太守だった人にとって、突然の改易とわずか一万石という領地の領主となった「数奇な」運命を嘆かずには居られなかったであろう。それも公にではなく、和歌の上でしか実現できなかったと云うことである。
同十三日
188.しら雲のたつ空みればあつげなれど 雪つむ山のこゝちこそすれ
(しらくもの たつそらみれば あつげなれど ゆきつむやまの ここちこそすれ)
(釈)入道雲がうっそうと立ちあがっているのを見れば、暑苦しげな空だが、雪が降り積もった山のようにもみえる。
忠廣解説
この哥の作意 同五月三日の昼ころに、暑い空に白ら雲が立っているのを見れば、これこそ雪が降り積もってできた山ではないかと思う心地がしたので、そのように見立てて書いた塵躰和歌集である。
訳者解説
この冬強烈な積雪を初めて経験した忠廣公には、真夏の暑げな入道雲も雪化粧した庄内の山々のように見ることもできた。この自在な認識の切り替えとも言うべきものは、忠廣公にとって自らおかれた思いがけない逆境を生き延びていくための必要な能力であったかもしれない。
同十四日
189.夏の夜の蛍のひかりみてもおもふ ふしぎをこめしあまつちの世や
(なつのよの ほたるのひかり みてもおもう ふしぎをこめし あまつちのよや)
(釈)夏の夜の蛍の光を見て、この世の不思議を思わずにはいられない。この天地の世に何という精妙なちからであろう。
忠廣解説
この哥の作意 同五月三日の夜庭に蛍が飛ぶのを見て、こんな小さな虫の中にさえも卓越した性質があればこそ、不思議な光を放って飛んでいる。この蛍には色々な素晴らしい能力があるのであろう。まして、人間の生を受けて生まれた人々の中にも、本当に様々な人々の中にも、まして仏性を受けて生まれた人間なら、自身、心の持ち方によって思っても見ない素晴らしいことに巡り会えるはずであると、仏法の力を深く感じながら書いた塵躰集であろう。
訳者解説
忠廣公は小さな蛍が輝くさまを見て、その小さきが上に、その存在、その能力の素晴らしさに感嘆している。まして仏性を受けて生まれた私たち人間は、心の持ち方によって仏の素晴らしい加護が得られること、蛍以上である。仏教観を持って見る忠廣公の目に、人間に対する、さらに言えば下々の人間に対する差別的な見方は存在しなかったように思われる。
この稿続く。
平成30年8月8日