加藤忠廣「塵躰和歌集」 全訳 (51)

同廿六日

203.こう人をたばこきせるに身をなして 思ひのけぶりふきてもはらさん 

(こうひとを たばこきせるに みをなして おもいのけぶり ふきてもはらさん)

(釈)煙草のきせるを恋しい人に見なして、その人へのせつない思いを煙を吹くように吹きはらってしまいたい。

忠廣解説

この哥の作意、同月十五日の夜にある人のことを思い出して、朝から晩までいつも手に添えて持ち身近くなじんだ物なので、恋しい人をこのきせるに言いかえて、思いの煙がはれる時があるのだろうか、と二つのものを二つの言葉に置き換えて書いた塵躰和歌集である。

 

訳者解説

煙草のきせるに見なされた恋しい人とは誰であろうか。「身近かくなれ侍りける」とあれば、やはり妻の法乗院と云うのが正答であろうと思われるのだが、編者の徳川義宣氏が

76の哥で指摘した熊本にのこしてきたある女性の姿を、私はふと思うのである。

「不明なれど忠廣には法乗院とその妹の二人の側室の他にも、肥後にのこした側室があった様である。」            塵躰和歌集 金鯱叢書 第二輯(P638)

殿さまがきせるで煙草を吸うシーンはテレビなどでも見たこともないし想像したこともない。であれば、側室とはいえ、また従姉妹とはいえ、高貴な妻の法乗院の前できせるは使わないであろうと思われるのである。その女性はきせるも平気な市井の人ではないかと想像する所以である。「思ひのけぶりふきてもはらさん」(思いを吹きはらってしまいたい)と云っているのだから、やはり妻ではないであろう。

 

同廿七日

204.そらにたつうき名もおなじ夏の月の あまの浮雲きゑてあとなし

  (略)

199で解説済み。

 

同廿八日

205.露は常に物思ふ袖にふかくをく 秋の千草の野邊にあらねど

 (つゆはつねに ものおもうそでに ふかくおく あきのちぐさの のべにあらねど) 

(釈)昔のことを思っているといつしか袖が深い露にそぼ濡れてしまう。露多き秋の千草の野辺でもないのに。

 

忠廣解説

この哥の作意、あの『露は袖に物思ふころはさぞなをくかならず秋のならひならねど』(わが袖は露に濡れるばかり。恋しい人を思っているとさらに。必ずしも秋というわけではないのに。加藤訳)とある古哥のこころを思って、わが身の上は常々秋の千草の野辺ではないのだが、しかしうき身のわたしは涙の露を深く置くばかりで、乾く間もないのだ。おそれおおい御方の哥の例にもあるように、「秋の千草の野辺」が入った言葉続きが面白い塵躰集である。吉野山の桜が満開の眺めといった風情であろうか。

委理は筆に尽くしがたいが、深い悲しみにおもいがあるだけである。この歌は五月十五日の夜思い出でて、二十八日の言の葉に書いておいた。

 

訳者解説

 忠廣引用の歌は、編者徳川氏の注には、「新古今 巻五 秋歌下 太上天皇」とある。原文に、「おほきたとえ」とあるのを「おそれおおい御方の哥の例」と訳した。

 改易から一年経とうとしているが、忠廣公の深い悲しみが消えるはずはないのである。

この稿続く。

平成31年3月21日