紀貫之 古今五九 春上
16.桜はな咲にけらしな足曳の山のかひよりみゆる白雲
(さくらばな さきにけらしな あしひきの やまのかいより みゆるしらくも)
(私訳)桜の花が咲いたようだ。足曳きの山の交いから白雲のように見えるあの淡い白色は。
元斎解説
「けらし」の「し」は渾るべし。この漢字、濁ると読むと思うが、「けらじ」では変ではないか?「山のかひ」は「山の間」である。真っ直ぐに見えるという事である。「あしひきの」については多義あり。
国経清輔などは大友皇子が狩をされたときに白鹿が足を射られて足を引いて山に入ったことから足曳の山と言ったと。
日本書紀には二神国が相爭いされた時、国土に蘆が茂り住む人もいなかった。芦原豊国とはこの時から言っている。この時この地の神たちが集まり芦を引き捨てた右側は高くなって山となり、これより芦引きの山と言うようになった。
又、すさのをのみことが山にお入りになった時雪に遭って、「悪しき日来たれり」(悪い日に来てしまった)とおっしゃったことからとも言う。このほかにも種々の説があるが、当流には不要の事で、山の枕詞と言ってよい。
訳者注記
あしひきの説は、小学校で習った覚えがある。元斎は朝鮮出兵の時、上杉謙信の養子上杉景勝に従って朝鮮国へいき、影勝公はその地で歌会や茶会を催していた。
元斎は集まった武将たちにまるで現代の予備校の講師が夏期講習をするように、古今集などを講じたのである。その勉強会に加藤清正公も交じっていたであろうことは大いにあり得ることである。元斎と清正公は昵懇の間柄であったというから、そうであろう。戦地でもみやびを学ぼうとしていた武将たちは、さすがは文武両道という事であろう。
当時元斎は庄内の大宝寺城の城主であった。あしひきの説はもうその時から言われ現代にまで伝わっていたという事で大変興味深い。
よみ人しらず 古今七三 春下
17.空蝉の世にも似たるか花桜咲と見しまに且ちりにけり
(うつせみの よにもにたるか はなざくら さくとみしまに かつちりにけり)
(私訳)花桜は、空せみのはかない人の世に似たのだろうか、咲いたと思うとたちまち散ってしまった。
元斎解説
空蝉の世とははかない世という心である。さくら花と花桜というのは別の事である。花桜は早く咲いてはやく散るのである。このように、花の中にも空蝉の世に似たものがある。花がこの儚さに似ているということであれば、これによって世上、空蝉の世という観念はあるはずである。
うつせみに二つ意味がある。一つは空蝉のからのようにむなしい世という意味、また、打つ蝉と言う、仏事をする時に鐘をうちならせば、それから蝉のなく声そっくりに僧たちが経を読む、この説を取って歌っている哥もある。
訳者注記
うつせみのは、世の枕詞。「うつせみ」は蝉のぬけがらの意。はかない世の意として通用している。(古今和歌集、新潮解説P49)
たくさんの僧たちの読経の声は、たしかに蝉の鳴き声を思い起こさせる。
この稿続く。
令和4年12月30日