加藤清正公の嫡男である加藤忠廣公は、幸いなことに手書きの個人和歌集「塵躰和歌集」(全319首、補13首、合計332首)を残しています。達筆ではありましたが、歌人ではありませんので、彼の歌その物に芸術的な評価は与えられないかもしれません。

改易からほぼ1年間、配所(丸岡屋形ともいう。現在は、山形県丸岡城跡公園となっている)での単調な日々の出来事や思いを、一日一首の頻度で歌っております。それまで毎日のように書きとめてきた和歌を1年後に、歌うことをきっぱりやめたのはどのような心境の変化があったからなのでしょうか。忠廣公がその時、どのような思いに達したのか、知りたいと思います。同時にまたそのことによって、その後の忠廣公の内面の心事をうかがう道は断たれました。
それから、彼がどのような思いで死までの二十一年間を過ごしたのか。断片的に表れるその後の加藤家の歴史をみると、力強い思いで、家臣とともに、農民とともに歩きだしたように思われてなりません。
それは想像の域を出ないのです。歌集の読み込みも今はまだ途上にあります。國文学に詳しい方で興味のある方には是非当研究会に加わっていただきたいとおもいます。

加藤忠廣公嫡男、光正公を考える時、私は彼を信じるところから出発しています。
光正公が「いたずら好き」だったとか、「暗寓だった」とか言われていますが、私はそうは思っていないのです。実高75万石と言われる大名家の嫡子が「暗寓」であったり、「いたずら好き」であったりするはずはありません。人一倍祖父である清正公を尊崇するその人が、加藤家の嫡男としての誇りと責任を忘れたはずはないのです。
飛騨高山にある法華寺に光正公の墓があります。観光スポットにもなっているので訪れた方もおられるかもしれません。
昨年の10月30日にそこを訪れました。光正公の墓に案内してくださったのはそのすぐ隣にある天照寺のご住職でした。法華寺にある光正公の遺品を見たいという希望がありましたが、あいにくその日、法華寺のご住職の急な出張で、なかに入ることができませんでした。
この墓が示しているのは、改易の翌年光正公が十六歳くらいの若さで謎の死をとげ、この墓に葬られたということです。墓が造られたのは彼の死の一年後とされます。昭和になってから、小雨がそぼ降るある日、墓が掘り返されたことがありました。そこからは成人とみられる遺骨が出土しましたが、大名の嫡男としての威厳ある副葬品は何もなく、その質素さに立ち会った人々は不憫の涙を禁じえなかったといわれます。
こんなこともあり私は、光正公は死んでいない、この墓の人物は光正公の身代わりの遺体だったに違いないと考えるようになりました。
それより前に、忠廣公が鶴岡の配所で設けた子供(幕府には死産として届けられた)の子孫で、山形県酒田市新堀の加藤勘右衛門家の家系書に、
「飛騨高山に、朝戸善友と言う人あり、自ら光正公の子孫であると称して、訪ねてきた」(「仰清正公」p301)と言う記述にも注目していました。この記述が本当なら、光正公は死んでいないことになります。この記述は専門家にも知られている事実のはずです。
私が飛騨高山を訪れたのは、この朝戸善友の子孫の方に会うためでした。私が調べた朝戸善友氏は、浩瀚な「高山市史」にも記載される有名な人物でした。彼が生きた時代は森鴎外とぴったり一致していました。
森鷗外について研究したことのある私にとって、それは大変心安いことでした。彼は鴎外の謂わばコンタンポラン(同時代人)だったのです。私は漢文脈の良くする善友氏の文章にたちまち惹かれると同時に、朝戸家こそが光正公の子孫であると確信し、ぜひお会いしたいと思うようになったのです。
私は現地の電話帳などで朝戸姓を探して……….などと漠然と考えていましたが、市役所の観光課にメールを送ると、担当の方がまたたく間に、善友氏のお孫さんで神通寺の前ご住職と、光正公の家来だった人の子孫の方に連絡をつけておられました。私は電話帳を調べることなく、光正公の子孫と家来だった人の子孫の方にお会いする事が出来たのです。
神通寺の前ご住職は忠廣公を通じてDNAを私と共有しているはずでした。袈裟を着ていない朝戸氏は普通の人のように見えました。
私は何か重要な発見があるかもしれないと思い、東京の出版社で編集の仕事をしていた弟を伴っていました。
市の職員の方を介して、朝戸氏から資料が送られてきていましたので、それを読んでいた私の目的は、あの時死んでいないはずの光正公の墓がどこにあるかということに変わっていました。当然朝戸氏も光正公の墓の在処を探索しておられましたが、発見できなかったことを当日知らされました。
私の考えでは郡上市高鷲町鮎立にある聞因寺になければならない。朝戸氏もそう考え、聞因寺を尋ねたけれど、光正公の墓はなかったと打ち明けられました。聞因寺は過去に火災があり、重要な文書は焼けてなくなったとのことでした。
これが今回の私たちの旅の結末でした。
残念ながら、光正公の墓は飛騨高山にはないというのが、結論でした。
事前に朝戸氏からいただいていた資料から、光正公の墓は、あるいは光正公の室の墓は、京都の勧持院にある可能性が次いで浮上してきたことをとりあえず書き記したいと思います。なぜなら、
神通寺の過去帳に次のような記述があるからです。(朝戸氏提供の資料より)
「京都市勧持院過去帳に
明歴八年五月
幸福院殿妙鑑日秀大師
忠廣息亀方御母堂
トアリ
忠廣ノ息ハ光正、即光正ニ
亀ノ方ト称スル内方アリタルナリト」
光正公には亀方と言う奥さんがおり、その母親の法名が、幸福院殿妙鑑日秀大師と言う。
京都の勧持院は加藤清正が壇越となって再建した日蓮宗のお寺で、現存する枯山水の庭は、清正公の作と言われています。
高貴な人物を想像させるこの「院殿」号付きの法名から、亀方の母親は清正公ゆかりの人物ではないかと想像されます。もしかしたら光正公の妻である亀方は、彼の従姉妹のような極めて近い関係の人ではないか。というのは、加藤家では従妹同士の婚姻が多いことと、事実、父忠廣公の二人の室は、共に母方の従妹だったからです。

最後に「塵躰和歌集」から一首引用します。
思ひこそ藤かめ松にやなぎいろ みなおりつるよさかゑ有の身ぞ
藤は藤の花を連想させる、藤松正良公、かめは亀姫、松はおそらく光正公、やなぎいろは光正公の妹と考えられます。                          寛永9年7月9日
釈)思いは子供達、藤かめ松にやなぎいろ、みんな元気にしているようだ、みんな将来ある身だ。元気に育ってほしい。
改易時の忠廣公の子供はこの四人であろうと思われます。忠廣公は自分の子供の名をすべてこの一首に読み込んだわけです。
長くなりましたので、ここでやめます。この稿続きます。
2017年4月12日