2017.05.14 加藤清正歴史研究会
加藤忠廣「塵躰和歌集」全訳(1)英数研究セミナー加藤敦訳
(寛永九年六月十六日)
1.世の中ぞ道分(みちわけ)行(いく)や毛頭(もがみ)川(かわ) うきなをくだす青かや小舟
(釈)世の中よ、最上川を道かきわけて、我うき名をくだして流れる青萱小舟
忠廣公解説
寛永十壬(じん)申(しん)年に、思いもかけない配流の身となり、最上川を下って庄内と云うところへ行く途上のこと。六月十六日、大石田と云う里に着いて昼くらいであったが、「今から小舟に乗って庄内へ行くぞ」と云うので、船に乗りこんでみると、六月の事なので(新歴では七月ー加藤)青(あお)萱(かや)で日覆いしたちいさな船で、山あいをこなたかなたと、どこともわからないところを下っていた時のことを、詠ったものである。
言葉使いなどないしん面白く、良くできていると思う。後々になって思い出して書きつけたものである。これ、道を知るということと似ているのではないか。
世の中よ みちこそなけれ おもひ入 山のおくにも 鹿ぞなくなる
(千載和歌集、藤原俊成)
(釈)この世の中はまあ、のがれていく道はないのだ。思いつけて入ってきたこの山の奥にも、やはりつらいことがあるのか、鹿がもの悲しく鳴いているのが聞こえる。
歌のさまは、この古哥に思い合わせられるように見えるが、青かやの意味するところは、「改易となった理由について色々言われるが、私に悪い点はなかった」と云う意味で、憂鬱な奥山里に住むことになったのは悔しいという思いを述べた。
代々の主君に対するひとしおの忠儀もすたりはてることもなく、親に対しても少しも孝行の道を違えていないと思えば、何の理由で、このようなありさまでうき名を下して、このようなところに行くことになったのかと思い、「世の中ぞ」と慨嘆したのである。
しかし、うき世は変わらぬものであり、そこでの義理を思い、うき世とはうき名を流し捨て果てる世の中と思ったからである。
言葉一つ一つに古哥の心をこめたつもりだが、なかなか筆が及ばない。「青かや」については、古い言葉に「青き」(柔和な、透き通ったという意味あり―加藤)と出てくる。色々さまざまの物に出てくるが、その折は船の様子からそのまま言っただけである。
「道分行や」の言葉も、歌心のある人にはおおかた意味がお分かりいただけるだろう。
2.いにしへの八重の櫻も夜夢(よるのゆめ) うき身ばかりぞ奥雪のさと
(釈)むかし見た八重の櫻を夜の夢に見た うき身のことしか考えられない奥雪の里で
忠廣公解説
配所での憂鬱な身の上、どうしてこのようなことになってしまったのか、庄内と云う所に着いて、六月十八日のころから七月ころまでずっとこの歌のようなありさまであった。
3.花も香もをきまよふらん藤の露 春と夏とはあきゆきてまつ
(釈)今は秋、花を見、香りを聞けば、藤の花に露が降りたのかと見誤れる。春と夏は秋が行ってから待つのが良い。
忠廣公解説
この歌は寛永九壬申年八月八日の夜、この思いによって願うことがあるので思い続け書いたものである。詳しくは筆にしても意味がないので、この形なった。
この「花も香も」の歌は、次の歌と順番が逆になった。
4.たちわかれうき身ながらもめぐりあふ くもはるるよのたなばたの空
(釈)離れ離れの配流の身でありながらも逢うことができた。雲がはれた後の七夕の夜の空。
忠廣公解説
この歌は、同じ年の七月七日の夜、そらをながめてゐて、こう思い続けたのである。
この稿続く。
加藤忠廣公の家族や改易については、別稿、加藤忠廣公「塵躰和歌集」を読む をご参照ください。「塵躰和歌集」の成立についても説明が必要ですが、別稿で書くつもりでおります。
この稿は、徳川義宣「塵躰和歌集」-加藤忠廣自筆・自詠歌日記ーを原本とし翻訳したものです。
5月14日
加藤敦