2017.05.17 加藤清正歴史研究会
崇法院を探せ!加藤忠廣公「塵躰和歌集」を読む。(2)
加藤光正公の母親崇法院(法名)は、徳川家康の三女振姫と織田信長の孫で会津六十万石の蒲生秀行との間に生まれた方です。つまり、母親は家康の孫にして信長のひ孫にあたります。その子である加藤光正公は、家康から血筋として松平姓を名乗ることを許され、豊後守松平光正とも呼ばれます。光正公は戦国時代のスターともいうべき、信長、家康、清正、三人のDNAを受け継ぐ人でした。
崇法院は加藤家改易の後、熊本城が細川家に譲り渡されたあと、いったん京都の本圀寺に姿を見せ京都にいた家臣たちを安心させましたが、その後姿を消し今日まで消息を全く断っています。この第二稿の副題が推理小説めいているのはまさにそのためです。
崇法院の親である蒲生氏は浄土宗でしたから、彼女が日蓮宗の京都本圀寺に住み込むことはできなかったと思われます。その頃彼女の故郷の兄、蒲生家はなくなっていましたので、彼女が最終的に目指すところは、飛騨高山の光正公の配所しかなかったのは心情的にも間違っていないものと思われます。それにしても名門の血筋であるのに、改易という試練に立たされた後の、実にさびしい行く末と言わざるをえません。重ねて言いますが、崇法院がどこに住みついたのかは今日まで誰にもわかっていません。
飛騨高山には、息子の光正公と一人の妹、家臣も十名程いました。同時に高山のお寺のほとんどは浄土宗と言われます。崇法院が隠れ住む場所はあったでしょう。しかも、改易から一年後には、光正公が死を装って解放された後の、家族そろった喜びはどんなだったでしょうか。驚いたことに、忠廣公の歌集にその記述が見られるのです。その記述については、次回に詳述します。
ここでは、まず加藤家改易についてまとめておきたいと思います。
戦国時代の英雄であった加藤清正公の亡き後、弱冠十一歳の忠廣公が肥後五十四万石を継ぎ加藤家の命脈を保とうと勤めました。が、いったん傾いた家運は脆弱であり、三代将軍徳川家光の時、豊臣恩顧の大名を断絶しようという徳川の思惑にはまり(曰く「某書事件」)、改易の事態となりました。
改易は42年の間、清正公が営々と築いてきた熊本藩を解体し、熊本城にいた二千名の家臣を路頭に迷わせ、忠廣公の家族を三つに分断しました。
加藤忠廣公は、事件が事実無根であることの弁明のために家臣の反対を押し切って、熊本から江戸に出ておりましたが、幕府の役人によって一時的に留め置かれていた池上本門寺から、庄内藩酒井忠勝公お預けとなり、江戸屋敷へ立ち寄ることも許されず、急遽庄内山形へ向かいました。家臣の侍二十名とその家族、医師、お付きの女中など合計五十名ほどの集団となっていました。
加藤光正公は飛騨高山金森重頼公お預けとなり、家臣十数名とともに飛騨高山に向かい、天性寺(現在は天照寺と表記)蟄居となりました。この一行の中に光正公の妹が一名兄の身の回りの世話のためにと加わっていました。
加藤藤松正良公、おそらく六七歳、妹1歳未満、母の玉目丹波の娘法乗院三人と家臣十数名は、初め信濃国松代城主真田信之に預けられ、その後信之の長男上野国沼田城主真田信吉に預け替えられました。家族は、山形(出羽)、飛騨高山、長野(上野)と遠く離れた地域にお預けとなったわけです。これら三つに分断された家族の運命は過酷でしたが、救いというべきものもありました。それは彼らがまさに加藤清正の後継だったということです。
戦乱のない平和な社会の中で暮らす武士たちは戦国時代に活躍した加藤清正のような戦国武将に憧れました。清正公のような存在は、多くの人々にとって強烈な憧憬の的でした。酒井忠勝公が、一週間に二度までも忠廣公を慰問したのは、忠廣公の人柄や人間性に魅力があったこともありましょうが、清正公への尊崇とその子孫に対する慰藉がもたらしたものも多かったに違いないと考えます。
酒井公の加藤家への思いがどれだけ強かったか、それは徳川幕府の圧力にもかかわらず、清正公の子孫が今日まで生き伸びたという事実に表れていると思います。酒井公の特別なはからいがなければ庄内における子孫の存続はなかったでしょう。
飛騨高山の光正公の場合、金森重頼公の祖父長近公は、朝鮮の役で、清正公と共に戦った武将でした。
この稿で述べることはできませんが、真田公に預けられた藤松正良公の場合も、同じ事が言われます。真田家が、豊臣家の家臣だったことを思えば、清正公の同輩。藤松正良公の死ですら、疑ってかかる必要があります。光正公の死も藤松正良公の死も、幕府の暗殺命令に対する金森公、真田公それぞれの自然なる対処方法であったと考えるのが至当と思われます。
「口碑に傳ふる所に依れば幕府は光正を高山に放ちしに慊たらで其族類の繁栄せざる間に之を殺さんとせしに領主金森家は其の祖に同輩なりしを思ひて此の無辜の人を殺すに忍びず之が為に斡旋せしものと見へたり」 (朝戸氏資料、飛騨高山町法華寺記録より)
ではその後の光正公の行く末はどうだったのかを、再び朝戸氏資料から見てみたいと思います。そこには驚くべき事実が書きこまれていました。
忠廣ハ羽州庄内酒井宮内少輔へ御預ケ息光正ハ飛州高山金森家へ御預父子共ニ浪人飛州ニテ山下豊後守ト改ム
金森家之ヲ高山法華寺ニ居ラシメ後金森家遠藤家内々被仰合照蓮寺在高山安養寺(在郡上)ヘ内談ヲ被成郡上ノ相走村淨蓮坊無住故寺入相成因茲山下宗左衛門ト号シケル淨蓮坊ハ泰澄大師案内三カ寺ノ内也 宗重郎正廣宗兵衛ト二子アリ
(朝戸氏資料、美濃國郡上鮎走村聞因寺記録)
金森公は遠藤家と内々に光正公の受け入れ先を探し、相走村の淨蓮坊が無住であったため光正公を山下宗左衛門と名前を改めそこに住み込むこととなりました。二人の子供があったとあります。その妻が亀の方と言うことになりましょう。
ちなみに、「神通寺朝戸家家系図」によれば、光正公の没年は貞享四年(1687年)、享年75歳であったとの事です。
光正公に付き従った家臣たちは金森公の斡旋により帰農し新田の開発に当たり今日に及んでいるようです。しかし私の推測によれば、光正公につき従った家臣が数名あったはずです。当然そこに崇法院と妹が合流したはずです。家族の感動的な再開です。庄内の忠廣公もこの快挙を知らされたはずで、そのことについては稿を改めて述べたいと思います。
加藤家の断絶は加藤という外様大名の名が自然に招かねばならなかつた時勢の災難であつたであろうか、と「高山市史 上」(昭和27年版)が、述べています。
加藤家改易に公然たる根拠があったわけでないことは、当時の知識階級の共通の認識でした。曰く、新井白石の「世に傳ふること色々の説あり、皆誠しからず」「其罪さだかならず」。
また後に云われる「いわれなき改易」という言葉から、忠廣公の公正を求める正義感の激しさがうかがわれます。幕府の強権によって屈服させられたのです。
忠廣公に、正義とは、公明正大な正しさとは何かという、言ってみればいまだ封建制度が多く残存する社会の中で、それと意識できないながらも民主主義の萌芽のようなものが忠廣公の心中に、また平穏無事な穏やかな社会の中に芽生えていたことを考えてみなければなりません。
我が国の当時の地方自治の中に、既に民主主義が育ち始めていたと言っているのです。後年、酒井公の「三方領地替え」の沙汰において、庄内藩の農民たちが、「故なき領地替え」の合言葉で、権力者の恣意的な決定に粘り強く異議を唱えました。
かつての加藤家改易の時とは異なり、農民たちが権力者による横暴に静かな闘志をむき出しにしたのです。それは一揆と言うようなものでなく、暴力を一切封印した正義を求める農民たちの、当時としては驚くべき民主的な請願運動でした。
この運動は実を結び庄内藩主酒井公を守りました。徳川幕府は命令を取り下げたのです。前代未聞の事でした。ところで、支配下の農民が支配者である藩主を守るとは一体どういうことでしょうか。
これらの二つの出来事の間にある類似性は明瞭でした。それは正当な理由のないものを強権で押し通そうとする行為に、強烈なNOを突き付けるということでした。
忠廣公の死後、子孫たちが庄内藩の農村社会の自治に民主主義の精神をもたらしたことは十分に調査研究される必要があると思います。もちろんそれは一人庄内藩だけでなく、他藩でも広く起こっていた自然な雰囲気であったかもしれません。
現代でも地方自治は「民主主義の学校」と言われます。上部構造が封建制度下にありながらも、地方自治において、民主化が進行していたことは注意されなければなりません。この稿続く。次回は「塵躰和歌集」から、忠廣公の内面の真実に迫りたいと思います。
2017年4月22日