2017.05.18 加藤清正歴史研究会
加藤忠廣「塵躰和歌集」全訳(5)英数研究セミナー加藤敦
17.いにしへを軒ばに忍ぶ松風に むかしすまいをうらみおくさと
(釈)「軒ば」と名付けた釜から湯の煮える音がまるで松にふく風のように聞こえ、昔の住まいの軒下に吊るしてあった忍草の事を思い、今を恨めしく思う奥里のくらし。
忠廣公解説
当時、二十一日の夜、丸岡の奥山里で「軒ば」と名付けて言った釜を初めて据え付けて、
湯のにえ音を聞き、それが松風のように聞こえたので、このように詠んだのである。「むか
しすまいを」言うのは、あの
百敷きやふるき軒ばの忍ぶにもなをあまりあるむかしなりけり(順徳院)
(釈)宮中では、古びた建物の軒の端に、忍ぶ草が生い茂っている。それをみると栄華を極めた昔のことがしのばれる。
と云う歌の様子を思い入れて、源氏物語の須磨の古物語も聞き伝えて、心に思い
初めたものであろう。歌のふかい意味は筆に尽くしがたいので大略だけ述べた。
*作者の順徳院は後鳥羽上皇の皇子で、藤原定家に和歌を学んだという。承久の乱(千二百二十一年)で敗れ、配流地の佐渡で没した。実高九十七万石とも言われる熊本藩(肥後)の藩主だった忠廣公は、順徳院と似た思いを抱いていたのかもしれない。(加藤注)
(寛永十年正月一日)立春の謌
18.あら玉る春もたつみによろこびを 重ねよろこぶ萬代の家
(釈)年が改まって春立つ身に喜びを。とり年の縁起の良い方角は辰巳(南東)なので、よろこびも重なる、永遠に続くわが家。
忠廣公解説
これは寛永癸(みずのと)酉(とり)年正月元日の哥として、前の年の十二月二十八日より思いついて書きつ
けておいたものである。この哥の作意は、とり年の良い方角は南東なのでそのまま言葉を
かさねて、こう書いたのである。
19.ことしこそとりどりよりてよろこび喜 世に出羽の國いさむ春こま
(釈)今年こそ縁起の良いとり年なので、それぞれが集まって喜びの気持ちを交わした。いよいよ、ゆるされて世に出る出羽の国の春の駒。
忠廣公解説
同じ年の元日、とり年なのを、このように言葉にして云ったものである。どれも言葉を
かさねて言っている。
*忠廣公の、寛永十年のとり年にかける縁起の善さと期待は大きかったようである。
*忠廣公の独特の表現として「ことばつづきに、」と云うのがある。掛け言葉の事を云うの
であろうかと思い、「かさねていっている」と訳してみたが、実のところよくわからない。
わかった人はどうかご教示ください。
20.はつ花の若葉の柳いと櫻 雪のはだゑのにほふおもかげ
(釈)新年になって最初に咲く花のまだ若葉の柳といと櫻、雪のように白い肌のにおうような懐かしい面影。
忠廣公解説
又は、「春のうす雪にほふおもかげ」とある。この哥は同じ年の元日の夜、「こ櫻」と名
をなつかしみ、ふかく思いを込めてこう書いたのである。ことわりは、わざとこまごまと
書きおかなかった。言葉のたたずまいに、気持ちを惹かれるところがあるであろう。
*柳は、飛騨高山にいる光正公の妹、いと櫻は、真田公お預かりの亀姫であろう。光正公
の妹は不明な点が多い。光正公の身の回りの世話をする為について行ったと云う説が行わ
れているが、実はもっと幼かったのかもしれない。光正公は推定十五歳、すると妹は十四
歳以下と云うことになる。十歳未満と云う事も考えに入れた方が良いかもしれない。
*忠廣公には太計、重の二人の妹がいたと主張する研究者がおられるが、妹は一人が本当
であろう。それは、この「塵躰和歌集」を読めば分かる、とだけ言っておこうと思う。
21.はつ春の清き心ぞ武士(もののふ)の 弓矢(ゆみや)おさめていわふわが宿
(釈)武士の清い心に戻って、庄内まで持ってきた弓矢をうつぼに入れて、ともに祝ったはつ春のわが宿。
*忠廣公は、出羽丸岡城一万石の藩主とはいえ、藩主としての領民への仕事は酒井忠勝公
がすべて行い、自身の仕事は何もなかった。まして、持ってきた弓矢が使われることは思
いもよらないことであったろう。勇猛と云われた加藤清正の嫡子であることを思うと、さ
びしすぎる境涯であった。
この稿続く。
5月18日