同十一日

32.鶯のはつ音か今朝の竹の内 なをもさゝやのたより聞きては

 (釈)まるで鶯のはつ音のようだね。竹の内は、今朝、今ごろ笹谷に着くという便りを送ってきたのだから。

忠廣解説

  あるいは次のようにも直した。「さゝやのたより聞くにつけても。」

  この歌の作意は、寛永十癸(みずのと)酉(とり)年正月三日、庄内を発って江戸と云うところへ行く人が

「同四日には、最上の内の「笹谷」と云う山の関のね坂ぎはまで行きつく」と云ってよ

こした事を、名字(みょうじ)が竹内(たけのうち)と云う者が使いの者に伝えさせ、その便りをだいぶ日がたった

正月十一日に聞いたので、「鶯のはつ音みたいだね」と、時期を失したことをおかしく思

い、自然にできたものである。

*このようなおかしみのある歌は、「塵躰和歌集」中、極めてまれで面白い。此の哥番号を是非覚えておいてほしい。

また、庄内を発って江戸へ向かった人が竹の内と云う名であったかどうか、文脈からはわかりにくいが、おそらくそう考えた方が良いだろう。同様の例が63の哥の解説中にもある。(加藤注)

 

同十二日

33.雪をふく風は霞かみよし野の 櫻の花にかゝるしら雲

 (釈)吹雪を起こし、なにもかも見えなくしてしまう冬の風は、吉野の櫻の花に白雲がかかったようにしてしまう嫌な春の霞のようなものだ。

*霞は、美しいものを覆い隠すいやなものとして表現されている。

 

同十三日

34.道ひろく世に出るこそみなみ方 のぞみもかのふとりのとしなり

 (釈)許されて世に出る広い道は南の方角である。今年は望みがかなうと云うとり年である。

*「かのふ」は「かなふ」となるべきであろう。ただし、訳者は「三島由紀夫全集」で少しばかり、旧漢字、旧かな遣いを学んだにすぎぬ者なので、このような指摘は本来できない門外漢であることを表明しておく。

 

35.世に出るみむまのかたぞ道ひろみ のぞみもかのふとりのとしなり

 (釈)許されて世に出る巳午の方角の道が広い。今年は望みがかなうと云うとり年である。

忠廣解説

この二つの歌は今年の神様が訪れてくる方向(恵方(えほう))が巳午の南方と云うので、この

 ように思いを詠んだのであろう。

 

同十四日

36.おもかげもねみだれがみもうちとけし 人をとヾめぬ春のあけぼの

 (釈)夢に見た、いとしい人の面影も、寝乱れ髪を解くようにたちまち解けて消えてしまった。人の追憶をいつまでもとどめておいてくれない春の曙がうらめしい。

*忠廣公は夢の中でしか、いとしい家族たちと会うことができなかったことを、いまさらのように寂しく悲しく思うのである。

5月25日

この稿続く。