同ニ十四日

53.こほりゐしすゞりの水も打ちとけき 志賀のからさき春のけしきに

 (釈)気が緩み、凍っていた硯の水も解けてきた。志賀の唐崎ではもうのどかな春の景色が臨まれるのだろう。

忠廣解説

この歌の作意は、夜の夢に人が硯を磨っているのを見て、春ののどかな気持ちをこのように言葉に思い入れて、とり立てて詠んだものだろう。心を一つにして、おもしろい言葉を続けようと思っただけかもしれない。返す返すも、吉野山はいつまでも見あきないみごとな春の眺めになっているだろうなあ。

*氷りゐし志賀の唐崎うちとけてさざ波よする春風ぞ吹く(大蔵卿匡房)

 これは八代集のひとつ詞花和歌集第一巻(春一首)にある歌だ。忠廣公はこの歌を踏まえて書いたものだろう。「氷り」、「滋賀の唐崎」、「うちとけて」、「春」、これら二つの和歌に共通した言葉がある。「おもしろい言葉を続けようと思っただけ」とはこの事を云うのだろうか。(加藤注)

 

同ニ十五日

54.世中はさだめなきかな人心 よきもあしきもしれぬことわざ

 (釈)世の中の常で、人の心には定まりがなく、思いもよらぬ言葉から人の心ねに逢着したりする。良きにつけ悪しきにつけ、どうにもわからないものが人の心ねだ。

忠廣解説

このような、気持ちがはれることのない配所での生活に関して、家中の人達がこのような様々な思いや望みを抱いているのかと驚く。

*捨扶料として、一万石が与えられた出羽丸岡城は、平屋で武家屋敷の形をしていた。図面から小規模ながらもお城の機能を備えていた事がわかるという。とは言え、年貢を徴収するなどの仕事は酒井公の家臣がすべて行っており、忠廣公の二十名ほどの家臣たちに与えられた仕事はなかった。実高九十五万石とも言われた肥後熊本城の武士たちが、仕事も与えられず、もっと言えば武士としての義務も免除され、どうして平穏な気持ちでこの奥山里に住まいできただろうか。それは忠廣公においても同様であっただろう。

ここに初めて、出羽丸岡における人々の生活が、はからずも明かされたことが分かる。この歌番号を記憶しておきたい。(加藤注)

 

同二十六日

55.のどかなる春のひかりもいとゞしく 長がき思ひまさりもやせん

 ()のどかな春の日はいっそう長くきらびやかなのに、私の長い長い思いはそれをはるかに超えそうだ。

忠廣解説

 とりあえずこう書いてみたが、もっといろいろ考え、これはどうか、と候補を比べながら書いたものだ。

*忠廣公のもの思いの中身はこれまで読んできた和歌や解説で語られたものと似ていたであろう。それらが混然一体となって、彼を苦しめていたに違いない。自らの閉ざされた未来、子供たち家族達の将来について希望的観測と絶望的観測とがからまって、無限に考え続けさせられる。それは誰にも止められない、決して終わりのない思考であったに違いない。(加藤注)

この稿続く。

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