同じ年の二月朔日

60.藤なみも春にあへとは花も香も 萬つ代さかへたえぬいろ也

 ()風に揺らぐ藤の花房が春と出会った。花のみごとさ、香りのあでやかさ、永遠に栄え絶えぬ美しさよ。

 *藤の花をみると、忠廣公は離れ離れになったかわいい盛りの藤松正良を思わずにはいなかった。力強く成長し元気に生き伸びてほしいという父の思いを潜ませている。(加藤注)

 

同二日

61.きさらぎの春ぞ中半(なかば)のあまつ空 霞のどかに花を待いろ

 ()二月の春のなかばの天の空、霞がのどかに櫻の花が咲くのを待っている気配が感じられる。

忠廣解説

又は、「霞こめつゝ花待(はなまち)しいろ」とも言う。これの意趣はその時ののどかな風景を思い続けた事だ。

 

同三日

62.ふた見浦にみかづきみるめ海士人(あまびと)の かりのころもや玉もぬれぎぬ

 ()伊勢の二見浦の海岸で三日月をみている。海女人の採る海藻(みるめ)から天人(あまびと)の姿(みるめ)が濡れた仮衣(かりごろも)で、あの手紙の事件も濡れ衣だったと分かった。

忠廣解説

 この歌の作意は、三日月の宵の時に、空を眺めながら海女人の採る海藻(みるめ)から、天人(あまびと)の姿(みるめ)が仮衣(かりごろも)だと思いついて、言葉続きに(掛け言葉にして)言った哥だ。

*玉=玉づさ(手紙)、光正公に罪を着せた某書事件はぬれぎぬだったと言明している。父である忠廣公がこのようにはっきりと言いきった訳は、次の二つの歌と忠廣解説を読めばわかる。626364の歌は同じ日に書かれたものなので、一つにまとめて受け取ることが重要だ。

 

63. つゝいつのいつゝにつめしちゃのこまで ひきつれてくるみちのあわれさ

 ()京都に送りつけてあった五つの茶壷に、茶菓子に似せて光正の手紙までしのばせて入れてきたよ。茶の道のなんという尊さよ。

忠廣解説

この歌の作意、茶壷を京都の宇治へ遣っていたのをお茶屋が、二月三日に江戸を発って鶴岡まで来るときに、そこで高力喜左衛門に持たせ、丸岡へ持って来させた。この五つの壺をみて「奥山里であるここには、この季節鳥の行き来も思うようにできないのに、よくもまあ、こんな遠くまで来てくれたものだ」としみじみ感じ、「風流に心寄せる道の情けは深いものよ」と深く感動して、その時に、このように言葉を選んで書きつけた。

*この茶壺は京都を出発してから、飛騨高山に寄って光正公の手紙をしのばせ、江戸を経由して鶴岡の忠廣公のもとに到着した。忠廣解説では、江戸から鶴岡を担当したのは

高力喜左衛門とわかる。しかし京都から江戸までは誰かわからない。しかし、その名をわざと隠したのかもしれない。その人が光正公の肉声を父親の忠廣公に伝えていることが次の歌で分かるからだ。

「ちゃのこまでひきつれてくる」、ちゃのこは茶菓子。これを、光正公の手紙まで一緒に持ってきてくれたと、解釈した。三つの歌を一つにして考えるとこうなる。

原文に「奥乗て」とある。意味がわからないながら、「深く感動して」と訳しておいた。(加藤注)

 

64. なでし子のたよりをつぐるもしほ草 花の香ふかき玉づさの色

 ()わが子光正の消息を知らせる手紙が届いたよ。ふかい花の香りをしみこませた玉づさの懐かしい手紙だ。

忠廣解説

この歌の作意、三日の夜に入って、遠いところから懐かしい手紙が来るのを見て、思ってもみない話を聞いて、手紙を何度も見、光正の言葉まで聞き伝えてくれたその言葉一つ一つを思い続けて、すぐに書いた哥の形であろう。本当のことは書くことができず中途半端になってしまった。

*「なでしこ」はわが子で、女子とは限らない。このとき手紙をきちんと書けるのは15

の光正公しかいない。研究者は、忠廣公は光正に一言も言及していない、愛情が薄かった

のではないかと忖度しておられるが、それは違う。

光正公の言葉を伝えてくれたのは高力喜左衛門であることは明らかだが、彼はそれを光

正公からじかに聞いたのだろうか。忠廣解説では分からない。(加藤注)

この稿続く。

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