同八日

69.しらぬいのつくしのたよりかりがねの 歸るついでやたのむにつくる

 (釈)不知火の筑紫から悲しい便りが来た。たよりを運んできた雁(かり)が田の面(も)に降りるように、帰(かえ)るついでに私の手紙を頼(たの)んだのである。

忠廣解説

この歌の作意、七日の頼母のところに来たたよりの事を繰り返し考えていたので、このような心を痛める心配ごとについて雁の足に結(ゆい)つけるように短く書いた。一面何もない春の田の面に降りる雁の足に結び付けて書いたことなので「歸へるついでやたのむにつくる」(歸ついでに頼んだのである)と言う理屈なのである。

*この忠廣解説、よくわからない。

68の歌と同じテーマだ。頼母のところに届けられた古里熊本からの手紙に、改易後の藩士たちの悲しむべき実情が書かれていたのであろう。それが忠廣公を苦しめた。

前の年の六月一日に改易が決まって庄内へ住んで九か月、熊本城や三つあった江戸屋敷の後始末はすべて家臣に任せるほかなかった。ちなみに上屋敷は国会議事堂前、憲政記念館の庭、中屋敷は千代田区紀尾井町の喰違見跡付近、下屋敷は明治神宮境内にあったと云うことである。

細川三斎公は熊本城明け渡しを誠実に行う加藤家家臣の様子を知り、さすがは清正公の家臣だと感心している。家臣たちは生真面目な藩主に似たのであろう。

しかしおよそ千三百名の家臣と、その家族を含めれば六千~七千にものぼるであろう人々の多くが路頭に迷うこととなった。忠廣公の「心づくし」(心を痛めた心配ごと)とはこの事であろう。

彼らの身の振り方は簡単ではなかったであろう。勿論細川家に召し抱えられた者、それを潔しとせず武士を捨てた者、他藩に召し抱えられた者、浪人となって京都本圀寺あたりに住みついた者もあった。忠廣公が心を痛めた心配ごととは、実はそれだけではなかったかもしれない。

後に高名な連歌師となる西山宗因は、八千代城代家老加藤右馬允正方(うまのじょうまさかた)(出家し風庵と名を改める)とともに京都に登った。

宗因は元禄文化の文学隆盛の道筋を作ったと言える人だ。加藤家改易がなければ現在、歴史で見るこの時代の文化の地盤沈下は免れなかったであろう。清正公が積極的に進めた武士としてのたしなみが、戦(いくさ)のない時代に隆盛を極めた。彼らはその申し子たちだった。ちなみに、國文学研究で名高い契沖(けいちゅう)は清正公の重臣下川又左エ門元宣(もとのぶ)の孫であった。

忠廣公の指示で、広大な京都六条流本圀寺(ほんごく)の境内のほぼ中央に庫が造られ、清正時代の膨大な遺産が熊本から船で運ばれ、そこに収められた。加藤家再興のための運動資金として、また加藤家再興の暁にはその元手資金となるべく、二人の家臣によって管理されることとなった。その一人加藤平左衛門は熊本城代として肥後の政務の一切を仕切った人物であった。もう一人の田寺勝兵衛は忠廣公の又いとこであった。この人たちの子、孫が忠廣公が庄内で死去するまでの二十二年にわたって財産管理にあたったのである。

ところが、その資金のうち莫大な金額に相当するものが、目的以外の支出となって消えていた。目録が残っているので検証可能である。

これは「風庵取り籠め詐欺」と云われる。(「続加藤清正「妻子」の研究」)

上掲書によって明らかになったが、私は消えた莫大な資金は改易後のさすらう家族達のために使われたことは勿論として、同時に京都に起こった元禄文化勃興の資金となったのではないかと考える。

ここで見え隠れするのが小堀遠州であり、遠州は風庵や西山宗因を通じて、忠廣公とも面識があった可能性がある。私の考えでは、これは「取り籠め詐欺」と云うことではなく、忠廣公の了解のもとに資金が支出されていたに違いないと云うことだ。

第一、訴えられたのは二万石の筆頭家老であり、八千代城代であった加藤右馬允正方である。彼は改易の後風庵と名乗り、身をやつして浪人となった後も宗因や小堀遠州、本阿弥光悦など京都文化サロンの中心に居たそうである。(続加藤清正「妻子」の研究)

しかし、八千代城代家老が先代の清正公の残した遺産を盗み取ると云うことなどあろうはずがない。

この頃にはもう加藤家再興の望みは打ち砕かれ、忠廣公にとって、清正公の遺産の行方は結局のところ、徳川に没収されるほか道がないことが明らかになっていたと思われる。であれば、忠廣公は惜しげもなく遺産を取り崩したであろう。

後年忠廣公は丸岡の配所にあった遺産(主として江戸屋敷から運び込まれた遺産)を庄内の農民たちに、数度にわたり配分した(「身は明星に似て」片山丈士)ことを考え合わせれば、あり得ないことではないのである。出羽丸岡一万石であれば、世帯数は八百件ほどか。それにしても何と云うおびただしい数の遺産を忠廣公は惜しげもなく散布したことか。

清正公の遺産の行方はまた別のテーマとなるのでもう述べない。(加藤注)

この稿続く。

6月17日