同十八日

81.豊年(とよとし)のいろはかわらじはるひなれど 昨日は今日に過るむかしぞ

 (釈)今年の五穀の豊穣は、春をみればわかるだろう。しかし、昨日は今日の過去であれば、月日の過ぎるのは早いものだと分かろう。

忠廣解説

この豊年の哥はちょうど春の折であったので、こう言ったのであろう。月日は春といえ

どもすぐに過ぎ去ってしまうと云うことではないか。

*忠廣公には理屈や論理にこだわる性質があったかもしれない。(加藤注)

 

82.そらごとかうその一聲うそめきて 春といえども庭のさびしさ

 (釈)まぼろしだろうか。鷽(うそ)が一声鳴いたのが空しくさびしく聞こえて、まるで嘘(うそ)のようで、春になったとはいえ、何もないさびしいわが庭だ。

忠廣解説

十八日、丸岡の庭に鷽がただ一声さえずるようにして、一羽がさびしく立っていたので、こう書いたのである。

 

83.いつみともいふもことわり鳥もこえぬ 道をこえつつくる茶つぼ也

 (釈)逸民といわれても当然か、鳥も飛んでこない雪道を超えながら茶壺がやってくるのだから。

忠廣解説

昨日、茶壺が京都から届いた。今月の三日に届いた五つの茶壺の中に入っていた光正の手紙の事を何度も繰り返し思いだし、こう思いを書いた。

*62.63.64の歌を思い出していただきたい。あの時は光正の懐かしい手紙がひそかに忍ばせてあった。あれからわずか十五日、お茶の消費の仕方が早いようだ。呑むのは忠廣公だけではないのかもしれない。(加藤注)

 

同十九日

84.かのきしにけふぞあふ身の船なれや 花見の春も法華経の袖

 (釈)彼岸の岸辺に今日、日昌が船に乗ってようやく着いたのだろうか。花見のさかりの春はありがたい法華経の袖で掃き清められる。

忠廣解説

この歌の作意は本常(淨)院日昌である。姉の日昌が亡くなって今年で七年、今日は彼岸の命日にあたっているので、心をこめて本證院という法師をふかくたよりとし、弔いをしてもらい、昔の事を思い出して書いたのである。

*あま姫の戒名は本淨院殿妙智日昌大姉、寛永四年八月十九日没。

慶長十年(一六〇六年)、あま姫は、徳川四天王の一人榊原康政の嫡子康勝に嫁いだ。父親の加藤清正と康政公とは男の友情でつながっていたようだ。

清正「俺の娘をお前の息子にやるぞ」

康政「よし、わかった」

こういう会話が交わされたのだろう。

康政公はその後まもなく逝去し、嫡男康勝が後を継いだ。清正公は康政との約束を早く果たそうと焦ったのかもしれない。あま姫はこの時、わずか九歳(満七歳)、康勝公は十七歳であった。清正公はこの結婚に相当力を入れたようだ。榊原家から小規模にという申し入れがあったが、清正の耳には入らなかった。

この慶事の六年後、即ち慶長十六年六月二十四日、加藤清正逝去、享年五十歳。あま姫十五歳。さらに、清正公逝去の四年後、大阪城落城直後の慶長二十年五月二十七日榊原康勝公卒去。この時あま姫十九歳。十年間の結婚生活であったが、二人の間に子供がなかったので、榊原家は断絶となり、あま姫は弟忠廣のいる江戸屋敷に戻った。あま姫は元和八年、阿部家へ嫁ぐまでの十年間を忠廣とともにここで過ごしたようだ。

しかし、後に康勝公と側室の間に男子がいることが分かり、あま姫は館林の田舎家に隠しおかれていたと云うこの子、平十郎を引き取り忠廣に預けた。そして、自ら阿部家に再嫁したのである。

平十郎は叔父となる忠廣公によって多くの家臣をつけられ、大名の子として、今は赤坂に位置する加藤家中屋敷に住むこととなった。続加藤清正「妻子」の研究(P104)に詳しいので、参照されたい。

あま姫は忠廣公にとって美しい姉だったようだが、同時に、凛とした強い心の持ち主であった。あま姫と忠廣公の年齢差は通常四歳くらいと考えられているが、私の計算では七歳である。その根拠は、この先の和歌に書いてあるので、しばらくご静観願いたい。(加藤注)

この稿続く。

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