同二十三日

90.こがね嶺の花と若松ひきそへて 庭の詠めに植をきし春

 (釈)こがね嶺に生える山吹の花を、庭の眺めを良くするために若松のそばに寄せて植え置いた春の日よ。

黄金(こがね)村(むら)が、山形県東田川郡にあったことが分かる。次の歌の忠廣解説中に、「丸岡といふ

里の西のほどちかく、金嶺山といへるやまあり」とある。熊本に金峰山という山があり、

山形にも同じ名前の形も良く似た山があり、熊本からはるばるやって来た彼らを慰めたと

言われる。「西のほど近く」という位置であれば、この金嶺山は金峰山に間違いないであろ

う。また次の忠廣解説によって、ここに出てくる庭に植えた花が山吹の花であったことが

分かる。

忠廣公は山歩きが好きだったようだ。修験道を中心とした山岳信仰の山として知られる

羽黒山に、後年山伏の姿で忠廣公はよく登っていたようである。

その時、忠廣公が身を清めるために立ち寄っていた家がある。富樫家という。祖母は生前私の父や,私の10歳年上の従兄となる孫を連れて東北を旅した時、この家に心安く長逗留していたようだ。

この家の女性が忠廣公の側室の一人と言われている。同時にこの富樫家の女性富樫治郎右

衛門の三女きよさんが明治二十年、祖母の長兄、加藤興野右衛門の長男の信治に嫁いでいる。長い付き合いである。

ついでに言うと、昭和の大横綱と言われた柏戸関はこの富樫家の人である。身長が188センチメートルの柏戸関が清正公のDNAを受け継いでいると考えると、清正公が大男であったという伝承はなるほどそうかもしれないと思えてくる。(加藤注)

 

91.をとにきく名所のわかな花もあいづ でわの山邊の奥里の人に 

 (釈)評判の高い会津の名所に咲く山吹の花も、出羽の山辺の奥里の人からいただいた。

忠廣解説

この哥の作意は、道の奥山里の丸岡という里の西のほど近くに、金嶺山という山がある。前の哥の花は山吹の花を指している。会津若松に配流された人達を読み込んで、今まで思い続けてきた名所の若木の和歌の表現、会津に流された人達が多く集まっているところが若松というところなので、これらを読み込み、このような形になったのである。

*原文には、「あいづの人あつまる所、若松といへるなれば」とある。

加藤清正は九州の国人だった初代玉目丹波の娘(正應院)を妻としていた。その間にできた子供が、加藤忠廣である。ここに出てくる会津に流された人はこの正應院の弟で、忠廣公の叔父にあたる2代目玉目丹波である。

会津に集まった人の中には、彼の妻と玉目丹波の息子秀之助(後に庄右衛門)、さらに法乗院、またしげさんの妹の三女(名前は伝わっていない)が父親の身のまわりの世話のために付いて行ったと思われる。そして、数名の家臣がいたであろう。

彼らを預かったのが誠に数奇なことながら、忠廣公の妻崇法院の兄、会津藩主蒲生(がもう)忠郷であった。忠郷(たださと)は義弟忠廣の叔父を預かったことになるのである。玉目丹波は罪人として忠郷お預かりとなったが、その扱いは緩やかなものであっただろう。玉目丹波の子孫の方は熊本県阿蘇郡玉目郷に現在も健在であるようだ。「増補加藤家の人々」(轟一郎)、「加藤清正「妻子」の研究」(前掲書)を参照した。

これは大坂の陣の時に、豊臣の求めに応じて、玉目丹波たちが幼少の主君の忠廣公に無断で兵糧を豊臣方に提供したことが幕府の知るところとなって表面化し、問題のとなった事件である。元和四年(1618年)首謀者たちが処断された。「馬方牛方の争い」として知られている。

この稿続く。

6月29日