2017.07.03 加藤清正歴史研究会
加藤忠廣「塵躰和歌集」全訳(23)英数研究セミナー加藤敦
同二十八日
97.わすれゑぬにほひふかきこうばしみ こゝろの花もいろふかき色
(釈)決して忘れることのないふかい香りの、我心の櫻花。その色ふかき美しきわが妻。
忠廣解説
公という事を、櫻花の色の美しいのにたとえてこのように詠み、奥里での慰みとした。本当の意味は隠しておくだけ。
*「こうばしみ」、「こゝろの花」とあるから、法乗院を詠ったものと考えてよい。ところで、この「公」の意味がわからない。(加藤注)
98.のこしおくかみの心もすなをなり かくたのみをぞかくるみやうち
(釈)宮内殿から手紙が来て、見てみると手紙の後ろに紙がわざと残してあった。この残りの紙に返事を書くようにとの意図がすぐに分かって面白かった。
忠廣解説
宮内という名前の人から手紙が届いた。残りの紙があるのを見てその時すぐにこの哥を
書いたのである。後日話の種になるかもしれない。
*宮内は徳川の官職名。原文に、「宮内と名にいふ人」とあり、まるで一般の人から手紙が来たように見せかけている。92の歌でも「ふりにし方より、法師の来りて」と書いて実名を隠している所にこの歌集を読み解く、または扱う難しさがある。この法師はただのお坊さんでないのは当然である。
酒井宮内大輔忠勝公から手紙が来たのである。この頃にはうち解けていたのだろう。歌そのものはユーモアが感じられて楽しい歌だ。
酒井家と加藤家は明治大正のころまで、「親戚同然の間柄」だと言われていた。
酒井家にとって大切な家があった。それは本間家である。本間光丘の時代に、忠廣公の長男の家筋である新堀の加藤勘衛門家と本間家は婚姻によって親戚になっていた。采配者は勿論、酒井公であろう。
酒井公の「三方領地替え」の危機の時に、その請願運動を資金の面で支えたのが本間家、実質農民を組織したのは五千石と言われた当時の大庄屋押切の加藤家と新堀の加藤勘衛門家ではなかったか。
この事件については角田貫次著「庄内藩轉封事件の顚末」正・続(昭和七年、八年刊)がある。実際あった出来事が詳細に書かれている。一種のドキュメントである。しかし裏で活躍したと思われる本間家や加藤家の名前は出てこない。興味のある方は、是非調査していただきたい。(加藤注)
同二十九日
99.田川よりもちて帰りしつゝじ椿 うゑておくには木々の春かな
(釈)湯田川温泉から持ち帰った躑躅と椿 植えて置(お)く奥庭(おくにわ)の木々はもう春の装い。
忠廣解説
田河という所へ温泉に行った者が帰りに躑躅の木と椿とを持って帰った。庭に植えて有名な椿温泉を思って、言葉続きに詠んだものだ。話の種にと思い書いた。
*田川、田河とあるが、金峯山の麓にある三方を山に囲まれた地にわく湯田川温泉のことだろう。庄内藩主も訪れたと云う歴史ある温泉とのこと。一方、椿は和歌山県白浜町の海岸にわく、こちらも由緒ある有名な椿温泉を連想させたものだろう。
同三十日
100.あわれにもすぎゆくあとのくまもとを こ夜いの夢に見る物うさよ
(釈)捨ててしまうことになってしまったあわれな熊本を、今夜の夢に見る空しさよ。
忠廣解説
今年の二月三十日の夜に、このような夢をみたので、思った事をそのまま書きつけたものだ。
*改易から九カ月経つが、失ってしまったものの大きさが、彼を夢の中でまで苦しめているようだ。(加藤注)
この稿続く。
7月3日