2017.07.08 加藤清正歴史研究会
加藤忠廣「塵躰和歌集」全訳(26)英数研究セミナー加藤敦
同十一日
114.櫻花かすみのうちにおもふ心を 風になりともにほひきかせよ
(釈)櫻花よ、霞がかかっていても良い、あなたの思う心を、風に匂い聞かせてほしい。そうすれば私のもとにかすかにでも届くかもしれない。
忠廣解説
この哥の作意、後拾遺和歌集巻第十一、後朱雀院御製の和歌をうけて、「花さくら」と言
う前の歌の心を思い出して詠んだものである。
後朱雀院御製(徳川)
ほのかにもしらせてしがな春霞かすみのうちに思ふ心を
(釈)ほんの少しでも知らせてみたいなあ、春霞の霞の中にあるような私のほのかな恋心を。(加藤)
*櫻花は法乗院を指すであろう。遠く離れて音信のない妻に対する思慕をせつなく詠った歌だ。(加藤注)
同十二日
115.座敷より詠がめぬわきの花なれば むかしは誰が庭の梅の木
(釈)座敷からは見えない脇に植えられた花なので、私たちが来る前の昔は、どういう人の庭の梅の木だったのだろう。
忠廣解説
この哥の作意、ある人が「野中のたち花」という題で詠んだ哥の心や言葉を思い入れ
て、奥山里の屋敷に今いる所から花も見えない片脇に、梅の木が植えられてあって、いつ
も見えない梅の木なので古歌の心、言葉を思い取って、このように書いたのである。
*自分たち以外の誰かほかの人に思いを致す心が現れた歌といってよいだろう。(加藤注)
同十三日
116.松風に心のかよふこころやらん いまはをとづれあけくれにきく
(釈)松風に人の心が通じる心があるのであろうか。今は松風の音(おと)の訪(おとず)れを朝夕に聞く。
忠廣解説
思いもよらぬ松の木を、ある人が手配して庭に植えてくれた。朝夕松風の音を友として聞くようになったので、詠んだ。これは松風に寄せる恋の哥とでも言うべきだろうか。
*松風が聞ける松の木を忠廣公は偏愛していると云うことか。それはなぜであろう。ユーモアを感じさせる解説になっている。(加藤注)
同十四日
117.櫻花ゑだめづらしきしだれゑの おもふかたへもなびきやするらん
(釈)枝が珍しいしだれ枝の櫻花、これでは思った方向へ靡いてしまうようで心配だ。
*しだれ枝の櫻が自分の妻であれば、へんな方に靡いてしまうかもしれない、という珍しいユーモアが続いている。(加藤注)
同十五日
118.老梅の花もひとゑに咲(さく)けしき あはれをとりししばのかきねも
(釈)老梅がいちずの気持ちで咲いているようだ。芝の垣根に咲く他の花は、なんと負けているよ。
119.物さびてひとへにさきし梅の花 まわりのかきもしらじらしくもあり
(釈)なんとなく古びて趣のある老梅の花がひたすら咲いているのに、周りの垣の花はぱっとせず、興ざめだ。
忠廣解説
この二つの哥の心は、奥山里のもの憂く寂しい屋敷に咲く梅の花の心を詠ったものだ。
120.もしを草かくあとたえしつくつくし
(釈)不明
忠廣解説
この哥の作意、土筆を書いた昔の俳諧の発句の心と言葉を思い出して、今日まさにその土筆を見て、これは俳諧の発句にもこう書いてある、となったのだ。和歌の続きは「よしのやま櫻花盛氣ながめとぞ」(吉野山の櫻は今が盛りのみごとな眺めだということだ。)心を一つのして想像するだけである。
*「もしを草」はこの「塵躰和歌集」のこと。「かくあとたえしつくつくし」は「後が続かず終わってしまったつく土筆(つくし)」。これらをどうつなげても意味不明である。土筆が出てくると分からなくなる。(加藤注)
この稿続く。
7月8日