(三月十八日)

127.面影のかわらで花のさかりあれや 色香もふかき此櫻木は 

(釈)面影はそのままに、花が盛りになってほしい。色も香りもふかいこの櫻木よ。

忠廣解説

又は、「色香もふかき此櫻木のこころ」。こうでもある。

*冒頭の日付は原文にはないので(  )をつけて補い鑑賞しやすくした。(加藤注)

 

128.色香をもとまり櫻の花のかほと おもひなしてぞ面影にそふ

 (釈)花の色と香りをとまり櫻の顔と思ってみれば、あの方の面影と重なる。

忠廣解説

この哥は前の面影の哥より一つ先に書きつけてあったのを、清書する時に前後してしまった。

*美しい櫻の色と香りをまじかに見ていると、それが亡くなったあま姫の面影と重なるとは、現代の私たちの実感と遠いように思われるが、そこがまさに「塵躰和歌集」が立脚している世界なのだと思うべきなのであろう。(加藤注)

 

129.いにしへの名にきく梅の種子やらん 道をとひこしには梅になる

 (釈)古くから伝わる名高い梅の種子だろうか。道を広げようやく植えて我庭梅となった。

忠廣解説

この哥の作意、ある所より珍しい花だと云うので、その梅の木を取り寄せ、今日十六日に、植えようとしたところ、いつもの道からは入らず、塀を破って入れ庭に植え付けたのでこう書いたのである。この木についてはここに運んでくる前に、十七日に既に花を見て、哥に書いたように、枝を折って甕に差したその梅の木なのだ。

*125の哥を参照いただきたい。(加藤注)

 

三月十九日

130.いろいろに花の枝みる中にても 心は猶をもとまりさくら木

 (釈)色々な美しい花枝を見た中でも、私の心は依然としてとまり櫻の上にある。

忠廣解説

あまりにも花の色と香りの顔(かほばせ)、神々しいほどに美しく思って、このような哥になったのである。

*忠廣公は色々な花の美しさにひかれ、折に触れて褒め称えているが、にもかかわらず、

あま姫のとまり櫻が一番心が引かれると言っているのである。(加藤注)

 

三月二十日

131.面影の櫻の花のかほばせは、うすいろよりもふかきこういろ

 (釈)あま姫の面影と重なる面影櫻の顔(かほばせ)は、うす色よりもふかい香色をしている。

 

132.わすられぬこうばしみ袖の面影を とまり櫻の花見てぞ思ひ出ます

 (釈)決して忘れることのできない香り豊かなあま姫の袖の面影を、とまり櫻の花を見ていると、その思い出がますます増してくるようだ。

忠廣解説

何度も何度も、面影櫻の花の色香を思い、亡くなったことを惜しみ、心でとまり櫻の花色やかぐわしい香りを人にみなして詠んだのである。

*あま姫は榊原康勝公の死から十年後に、将軍家の計らいで上総大多喜藩主阿部正次の嫡子、正澄と再婚しその四年後、寛永四年(1627年)、嫡男徳千代を出産ののちに死去。夫である阿部修理亮正澄も翌年、あとを追いように卒去した。阿部家の後は正澄の弟重次が継いだ。

両親を失った徳千代は十二歳になって、正令(まさよし)と名乗り上総大多喜一万石の大名となった。その後初代老中阿部豊後守忠秋の養子となり正能(まさよし)と改め武蔵忍藩八万石を襲封し老中となる。

加藤清正の孫がついに徳川幕府の老中になったのである。正能の子正武、老中、その子四代目正喬(まさたか)、五代目正允(まさちか)、六代目正敏、七代目正識(まさつね)、みな老中。幕府の中心にいたのはあま姫の血統を継ぐ、加藤清正の子孫であった事はあまり知られていないであろう。(加藤注)(続加藤清正「妻子」の研究、P51参)

この稿続く。

7月13日