三月二十四日

137.草にてももしかくことのありやする 春はほに出づるつくつくしかな

(草にても もし書くことの ありやする。春は穂にいづる つくつくしかな。)

 ()草だけれどこれで字を書くことができるだろうか。春には穂が出て字が書けそうな土筆なのだが。

忠廣解説

これは、「今日土筆を取りにやらせまして」と言って頼母が持ってきた杉の折り箱に、土筆がたくさん入っているのを見て、数が多くみごとなのを見て詠んだものだ。

*加藤頼母は、庄内で160石。忠廣公に従った忠臣たちは、出羽丸岡1万石に合わせて当然のことながら減らされた。加藤頼母は忠廣公に最も近い家臣だったのではないか。二十一年後、忠廣公が逝去し、加藤家は断絶となった。加藤頼母は、酒井忠當(ただまさ)公より屋敷が下され庄内藩士となった。出羽丸岡での家老は相田内匠で、熊本で3610石、庄内で300石であった。(加藤注)

 

同二十五日

138.をとにきくむかしのあまの神のながめに にほふ梅がえぬさとやみる花

(おとにきく、むかしのあまの 神のながめに、におう梅が枝野 さとやみる花。)

 ()古くから語り伝えられている天上の神々の姿には、山里に見る匂うような梅の花枝が梅の野となってそえられているだろう。

忠廣解説

これは、昔の哥の心を想像して詠んだものだ。

*「にほふ梅がえぬ」の「ぬ」を「野」と解釈し訳した。(加藤注)

 

寛永十癸(みずのと)酉(とり)年三月二十六日

139.物をおもふ心に春の日をそへて ながながしいろの彌生すゑかな

  (ものをおもう こころに春の 日をそえて、ながながしいろの やよいすえかな。)

 ()物思いにとらわれた私の心は、春の日長、果てしなく、終わるところがない。長い長い三月の末つ方よ。

忠廣解説

この哥の作意、思うにまかせないこの世で気がふさいでいる時、心の中で色々なことを思っていると、秋や冬の日でもくれかねるほど一日が長く思えるのに、まして春の日長である。三月末の空もいつまでも麗らかで日が暮れないのを見ると、いっそう一日が長く感じられて物思いにふける心に添えて、長々しくも春の日に添えて私の思いを詠った。

*堂々巡りのようなもの思いから抜け出せない忠廣公にとって、長閑な春の日長は彼の憂鬱な思いをさらに深めるほかはないのであろう。忠廣公の思いとは、赦されて世に出る事であろうし、京都にいる家臣たちの運動が遅々として進まないことに関わっていたであろう。それでも、ある日その日が突然やってくるかもしれない。思いは様々な空想ととともに、歓喜や落胆を伴って果てしなく彼を悩ませたのであろう。(加藤注)

 

同二十七日

140.うきときはながながし日もあきぬ色ぞ 物おもふころの春なればなり

(うきときは ながながし日も あきぬいろぞ。ものおもうころの 春なればなり。)

 (釈)憂鬱な日は長い一日も飽きることはないものだ。自然に物思いに誘われる春だから。

忠廣解説

この哥の作意は、まず前の哥と同じ形式の中に、物を思う心もなお一層長々しくあったので、かすかに感じられる春の日の気配すらも飽きないものだと思ってそう書いたのである。何となくさびしい歌になっているのは、すなわち寂しい気持ちの時に詠んだからである。

*庄内到着の初期の頃、月を眺め離れ離れになったばかりの愛する家族に思いを凝らしていた頃の忠廣公は、痛々しかった。月が照らす闇夜のはるか向こうに子供たちや妻がおり、手を伸ばせば直に触れることができるという思いにとらわれると云う事もあったかもしれない。あれから八カ月、倦怠と憂鬱が忠廣公を呑込んでいたと言っても良いかもしれない。(加藤注)

この稿続く。

9月11日