2017.11.14 加藤清正歴史研究会
加藤忠廣「塵躰和歌集」全訳(32)英数研究セミナー加藤敦
同二日
145.うきときの浮世にさける卯の花や かきねわびしきをくさとの庭
(うきときのうきよにさけるうのはなや。かきねわびしきおくさとのにわ)
(釈)思いに沈んだ時、この浮世に咲く卯の花よ。垣根がいっそうわびしく悲しい奥里の庭
忠廣解説
この哥の作意。憂き物思いに沈んでいる時の現実の我身を、卯の花と言う言葉に結い結んだものだ。路の奥里のなんともうらさびしく住まいしている所に咲いている庭の垣根の卯の花なので、こういう表現となったのである。
*自分をさびしい卯の花に見立てているのであろう。小路に咲く白く清楚な花だ。(加藤注)
同三日
146.夏になりてまたるゝこゑもほとゝぎす きなかぬかきね卯づきうの花
(なつになりて またるるこえも ほととぎす きなかぬかきね うづきうのはな)
(釈)夏になっても待ち焦がれたほととぎすが来て鳴かない。卯月四月の垣根に咲くさびしい卯の花よ。
忠廣解説
この哥の作意、ほととぎすの声が今になっても聞こえないので、こう書いた。夏になって
も声すら聞こえないので本当に四月なのかと、卯月と卯の花をかけて詠った塵躰和歌集の
哥のようだ。
同四日
147.遣水のをとせで末にめぐりあふく なつかし人にあわれあふべく
(やりみずの おとせですえに めぐりあうく なつかしびとに あわれあうべく)
(釈)庭に引いた遣水が音もなく池泉にめぐり流れ込む。いつか懐かしい人たちにめぐり逢う日を待つように。
忠廣解説
この哥の作意、奥里の我庭に遠くから水を引いて造った水路の様子を見て、まさにここに
水が巡って来たように、いつか懐かしい人たちにも逢う時代が来るだろうとの意味を込め
た歌である。
*忠廣公にとって見るものすべてが、懐かしい家族や家臣たちとの再会を連想させる。
ところで、「めぐりあふく」とある。この「く」の意味が不明である。「く」を入れるこ
とによって、六音になってしまっている(加藤注)。
同五日
148.あはれにもあはいゐかしぐうき身にて 露のなさけもおみなへしとか
(あわれにも あわいいかしぐ うきみにて つゆのなさけも おみなえしとか)
(釈)しみじみとありがたくも、朝食に粟飯を炊いて出してくれた。浮世のわが身への
かすかな情けが、女めし、女郎花とは。
忠廣解説
この哥の作意、四月三日の朝、粟飯を作って出してくれたのを見て、あのみちのくで佐野
の渡りに住んでいた人が、気持ちを詠んだ哥を今思い出して詠んだのである。
*粟飯=女めし=「女性を圧倒する美しさの女郎花(おみなえし)」となっているであろう。
忠廣公は粟飯を食べることはあまりなかったであろうが、ここには風流な感嘆の思いがこ
められていると思われる。
粟はお米よりも寒さに強かったことで継続的に栽培されていたようだ。
また、白米と比べても栄養価が高いようである。
食物繊維は白米の約7倍、カルシウム約3倍、マグネシウム約5倍、鉄分約6倍、カリ
ウム約3倍。忠廣公のしみじみとした感謝の気持ちが理解できるであろう。(加藤注)
11月14日
この稿続く。