同六日

149.このころの雨に草木の色そいて おのづからなつ空にしらるゝ

   (このころの あめにくさきの いろそえて おのずからなつぞらにしらるる)

  (釈)最近の雨で庭の草木の若葉の色がいっそう映え、空も自然に夏空を思わせる。

忠廣解説

二三日ほど前から雨が降り、草木の若葉が急に色付き涼しくなって、おのずと夏の気配が

空にも感じられたので、こう書いたのである。

 

同七日

150.夏草の色しげくなる心ちして 櫻の青葉思こそやれ

   (なつくさの いろしげくなる ここちして さくらのあおば おもいこそやれ)

  (釈)夏草の色が濃くなったような気がする。若葉だった櫻も大きくなっただろうなあ。

忠廣解説

この哥の作意、花ざくらと詠んだ歌の心は、この言葉を受けて、すでに青葉の櫻の季節だ

ったので、木草を眺めても、哥の心を思うとどうしてもそのことを思ってしまう。このよ

うに心に現れたので、詠んだ次第である。

*解説も、わかりにくい。「其のことを思ひ出て」(どうしてもそのことを思ってしまう)

とある。「其のこと」とは、娘の成長の事であろう。

語りたくても語れないことを語ろうとするから分かりにくくなるのである。忠廣公は、

真田公に預けられた幼かった亀姫の成長に対する思いを歌っているのであろう。(加藤注)

 

同八日

151.つきも日も光をそへて玉衣の 御法の袖の花ひらく夏

 (つきもひも ひかりをそえて たまころもの みほうのそでの はなひらくなつ)

 (釈)釈迦のお生まれになったこの日、玉衣に月も太陽も光を注ぐ。尊く長きにわたる仏教の歴史が始まった夏。

忠廣解説

この哥の作意、四月八日の釈迦の誕生の日、まさにこの月のこの日にお生まれになった事を心に思ったことがこの哥の心なのであろう。心も言葉も、とても及ばぬことで、恐れ多くも月並みなことだけでもと思いながら、書きつけたものだ。

*忠廣公の和歌や解説を現代語にする時、たとえ拙くとも原文の表現と彼の心の動きを写し取りたいと思いながら訳している。拙すぎるが。(加藤注)

 

同九日

152.うきときのうき身なりせばながれちかく 水のうゑにもすむ心ちすめ

 (うきときの うきみなりせば ながれちかく みずのうえにも すむここちすめ)

 (釈)私は浮世の憂き身なので、水の流れ近くにいると、その水の上に住んでいいるような気持ちがする。

忠廣解説

奥山の屋敷の庭に水を流して、流れてくるのを見ていると、自分の今の住居も仮の住まいで水が流れるのと同じように見えた。はるばるとこのような遠くまで来て、このようなところに住むのも憂き時の憂き身なればこそのことと思って、その気持ちとその時の様子を詠んだものだ。

*忠廣公の「塵躰和歌集」を詠んでいると、大時代風の見栄や啖呵などどこにもなく、思想でも学問でもない、その時々のふとした思いや感じ方が現代人である私たちと同じであることに驚くのである。

近くの川の水を自分の庭に引いた。長く住むつもりはないのに彼は花木を植え、水をひいたりする。その時自分の思いと行為に微妙な違和感を抱くのである。

忠廣公の和歌には文法的な誤りはあるようであるが、言葉は正確に選ばれている。それに対して彼の解説の方は、自分の感覚に引きずられすぎていてわかりにくく、簡潔さを欠いている。とは言え、この解説がなければ私たちは彼の和歌を理解することはできないのである。(加藤注)

平成30年1月2日

この稿続く。