同十日

153.夏の夜もひとりねがちはおきゐつゝ おとづれきくも庭の松風

  (なつのよも ひとりねがちは おきゐつゝ おとづれきくも にわのまつかぜ) 

(釈) 夏になってもいまだ一人寝の夜、縁側の端居で、庭の松風に朝の訪れを聞く。

忠廣解説

卯月五月五日の夜、一人寝があまりにさびしくて、夏の夜だったが、ながく寝られないで起きていて、縁側の端居で時折庭の松風の声を聞いても尚、心わびしさが募ってこの哥の詠んだのである。

*庄内に来てからまもなく一年になろうとしているのに、依然として愛する家族たちにも逢うことができない。その寂しさで忠廣公は、夜も寝られず、縁側の端居で、時折庭の松が風に鳴るのを聞きながら、白々と夜が明けて来るのを眺めているのだろう。(加藤注)

 

同十一

154.戀ゝて水のあわれにやなくかわづ なつきそめてのならひ成らん 

  (れんれんと みずのあわあれにや なくかわず なつきそめての ならいならん)

()仲間恋しさに、澄んだ水辺で鳴く蛙。夏が来そめる頃のいつもの光景であろうか。

忠廣解説

夏の日、哥の筆をおく里の、遣り水の沢のほとりの心を詠んで、妻や子供達を恋しいと思う深い心の思いを、蛙を詠みいれて表したものだ。

*哥番152にある庭に引いた水路で鳴く蛙を詠んだものだろうか。それとも配所を出てどこかの水辺で詠んだものだろうか。(加藤注)

 

同十二日

155.小柴に色香のふかき藤の花を 世に出てながくながめあそばめ

  (こしばに いろかのふかき ふじのはなを よにでてながく ながめあそばめ)

()小柴に咲く香りふかい藤の花を、自由の身になって眺めたいものだ。

忠廣解説

この哥のこころ。七日の夕がた小柴に咲く藤の花枝が甕に差して活けてあるのを見て、匂いも深く花房も長くみごとだったので、花の色香と書きつけて詠んでいたのを思い出して書いたものだ。

*七日の夕方とある。忠廣公は何かの用事で出かけていて戻って来た時に、家臣の誰かが庭の小柴に咲いていた藤の花を折りとり、部屋の甕に活けてくれたのを見たのだろう。(加藤注)

 

同十三日

156.世に出て四海にみつるしるしかな

               是いわく

    あをぐあふぎのおほ身なる袖

  (よにいでて しかいにみつる しるしかな

   あおぐおおぎの おおみなるそで)

()自由の身になってから、世に満ち渡る徴だろうか。

                これに言う

  はればれと扇をあおぐ大身の男の袖は

忠廣解説

この和歌集に書いたのは、四月十三日の暑い時に、うとうととまどろんでいると法師が向かって「これは面白くみごとなものだ。これを見て発句を作れ」と、笑って気持ちよく教え諭すように言っている。言葉通り扇の紙の地を並べた。最初の二枚は白地にいろんな金銀の砂子の泥。その次のふたつは金の地のように見えた。その次のは紺地でふたつとも金銀の筋を引いて色々な絵の模様が描いてあるように見えた。扇は六枚であったが、四枚あると云う気持ちで「はやく、はやく、発句を作れ」と、心地よさそうに言っている間、さまざま思案する気持ちになって詠んだ。『世に出て四かいにみつるしるしかな』といって、心に抱いていた自分の望みがかなって自由の身になる徴を前に聞いたことがあると思って、この夢のお告げはどう見ても普通のことではないようだと、頼もしい期待を抱いて、目を開け身をきよめてこの句のわきを続けて書いた。本当に心に浮かんだ言葉をとりあえずこのように続けたのである。三句目はめでたく世に出て、住む世界が広くなり心の中にあった色々な気兼ねがなくなったように思った時に思い続けるであろう祝福の気持ちを表したものだ。四月十三日の哥に書いたことである。

*「三句目」とあるが、「二句目」の間違いであろう。赦されて自由の身になり、住む世界も気持ちも広くおおらかになった様子を、扇をあおぐ自身の袖の緩やかな動きを思わせている。

「おほ身なる袖」とある。「おほ身」とは長身ということであろう。清正公は遺された手形から180センチ以上の長身だったと見る向きもあるが、この発句と付句から忠廣公も長身だったと思われる。

「加藤家の人々」轟一郎著にも、忠廣公が大柄の人物であったと推測させる次の記述がある。

○忠広公愛用の笛 黒漆塗の横笛。加藤家の紋所である下り藤を彫った真鍮板が、端についています。この笛は余程肺活量の大きい人でないと吹けないらしく、黒川能の笛師上野喜三郎氏が生前吹けた位です。

  明月の夜、忠広公の吹くこの笛の音は、丸岡館から二〇キロメートル離れた十王峠で聞こえたと伝えられています。

(加藤注)

平成30年1月17日

この稿続く。