2018.01.24 加藤清正歴史研究会
加藤忠廣「塵躰和歌集」全訳(37)英数研究セミナー加藤敦
四月二十一日
165.おもひあればみじかき夜はも夏ごろも ねもせであかすひとりねの床
(おもいあれば みじかきよわも なつごろも ねもせであかす ひとりねのとこ)
(釈)思いがあるからであろう、短い夜も夏ごろもを着て、寝ないで明かす一人寝の夜。
忠廣解説
この哥の作意、今月の十二日の夜、寝られずに起きていて、心を物思いに紛らわし、どうしても寝られないのでおきていながら春のものではないが、心に物思いがある時なので、思ったとおり詠んだものだ。
*一度に家族を失った忠廣公の寂しさと孤独は想像を絶するものだろう。忠廣公の思いは、家族だけではなかった。多くは路頭に迷ったかもしれない千二百名の家臣たちとその家族の上にあった。あれから一年もたっていないのにどうして安眠を得ることができるだろうか。(加藤注)
同二十二日
166.鶏はなにをおもひてなくやらん 我はいろだに見えぬききやうくわ
(にわとりは なにをおもいて なくやらん われはいろだにみえぬききょうか)
(釈)鶏は何を思って泣いているのだろう。とりわけ私はまだ咲かない桔梗の花だ。
忠廣解説
この哥の作意、十二日の夜、とうとう眠ることができずに鶏の声を聞いて、その心で思い出して書いた。桔梗の花は四月には咲かぬものなので、思っているものの実体が見えないことにたとえて、この桔梗花に結び付けた歌の様なのである。
*鶏が何を思って泣いているのかその実体が見えないし分からない。忠廣公の思いの実体は誰にも見えない。同じように桔梗はまだ咲いていないので、その姿も見えない。だから自分は色すら見えない桔梗花だと言っているのであろう。(加藤注)
同二十三日
167.あわれそへていわけなきよりそだてつれて けふわけがみをそぎてひとなす
(あわれそえて いわけなきより そだてつれて きょうわけがみを そぎてひとなす)
(釈)いとしい愛情とともに幼いころより育ててきたこの人が、今日分け髪を切りおとし成人となった。
忠廣解説
この哥の作意、幼い時から大切に育ててきた子を、路の奥里まで連れて来て、この日成
人したので前に垂れた振分け髪を切り落とさせた。この者の姿を見て、まだ幼かった頃より育てながら使ってきて、その間これまでのうちに様々な多くの事や、身の上にあれこれと心配ごともあったが、思いを込めて使ってこれまできた。今日成人した姿を見て、昔心を悩ませたことなどを思い返しながらこう書いたのである。
*この日成人したこの少女こそ、後に忠廣公の妻となるしげさんであろう。改易で忠廣公
にしたがって庄内までやって来た時、彼女はまだ14歳であった。満で言えば13歳であ
る。この時忠廣公は29歳。二代目玉目丹波の四人姉妹の3番目である。忠廣公とは従兄
妹同士であった。
父親の二代目玉目丹波は会津藩御預かりの身、妹は父とともに会津藩にいた。この妹は
後に会津藩金山奉行小坂三四郎に嫁した。「加藤家の人々」(P116参照)
長女法乗院は二人の子供とともに沼田の眞田家お預かりの身、次の姉は八千代城代家
加藤右馬允正方の養子、加藤佐内に嫁していた。加藤家改易ののち、左内は徳川家光の時、召し出されて旗本となり江戸に住んだ。(前掲書参照)
14歳のしげさんは忠廣公に従う他なかったであろう。忠廣解説の原文にはこうある。
「いままでのあいだには、いかほどいろいろさまざまなることごとも、又その身のうゑこ
なたかなたと心にかゝる事もありけれ供、なさけをかけてつかい立、これまでつれき。」
この文から、自分の境涯にけなげに耐えて働いてくれているこの少女に対する、気遣
わしげな忠廣公の老成したあたたかい心持が感じられるのである。(加藤注)
同二十四日
168.高松にあやめつつじを引きむすび 水清き露詠めたえせぬ
(たかまつに あやめつつじを ひきむすび みずきよきつゆ ながめたえせぬ)
(釈)高松という花入れに、あやめとつつじを一つにして活けたところ、澄んだ水と夜露が何とも言えぬ美しさだった。
忠廣解説
この哥の作意、寛永十癸(みずのと)酉(とり)年四月十六日の夕方、高松という花入れにあやめとつつじの
二種類の花を一つにして入れた。この二つの花はある子供がよそからもらって来て、「花入れに活けよ」などと言っていたので、あの高松の花入れに二種類の花を入れて見ていたのである。すると花にもたくさんの水滴がついて、高松にも水をいっぱいに入れ、花入れの口まで澄んだ水でみたすとあまりに見事な眺めにこらえきれず、すぐに十六日の夜このように言葉を思い続けて、二十四日の所に書きつけたのである。
*「花入」は茶室に飾る花瓶のこと。高松という名のついたこの花入れはかなり大きなも
ので、口元まで清水をいっぱいに満たし、清冽な水の美しさも楽しんだものであろう。
「あるわらわ」とあるのは丸岡城の中で暮らしていた家臣の家族だろう。殿様も家臣の
家族も分け隔てがないように見えておもしろい。(加藤注)
平成30年1月24日
この稿続く