同二十九日

173.をとにのみきく人々の筆のあとを かけてぬる夜ぞ名もたち花や

  (おとにのみ きくひとびとの ふでのあとを かけてぬるよぞ なもたちばなや)

 (釈)名前でしか知らない高名な名筆たちの書を、床の間に懸けて寝た夜。にわかに名もたつ花橘よ。

忠廣解説

この哥の作意、寛永十癸(みずのと)酉(とり)年四月二十八日に、座敷の床の間に名筆で名高い三人の書を懸け、飽かず眺め夜になってもそのまま懸けて、ついにその座敷で寝てしまった。三つの掛物のうち定家卿の筆の言葉に『年ごとにきつゝこゑするほとゝぎす花たちばなやつまにはあるらむ』(毎年決まってやってきて鳴き声を聞かせてくれる時鳥、花橘はつがいの妻なのであろうか)と読んでおられる哥の言葉遣い。時鳥、花橘、いずれもが今の折柄おもしろい組み合わせと思い、心ひかれるままこのように書いたのである。哥の心意気など色々思う事もあるが、季節の体まで表現していて、その歌の様を私には筆に尽くしがたく、こればかりの事を言っただけの哥の姿であろう。

 

*徳川氏の注に、

貫之集 年ごとにきつつ聲する時鳥はな橘やつまとなるらむ。古今六帖 第五句 つまにはあるらむ。

とある。

藤原定家筆、貫之の和歌が忠廣公のコレクションにあったことが分かる。これは今どこにあるのであろう。国立博物館か、あるいは山形にあるのであろうか。ご存じの方はお知らせください。原文に「よさはぬ詠め」とあるが良くわからない。文脈から私は「飽かず眺め」と訳しておいた。いつか解決したい。(加藤注)

 

四月晦日

174.わすれ草の花見ぬとしのうづきなれば 色香もうすくおもほゆるかな

  (わすれぐさの はなみぬとしの うづきなれば いろかもうすく おもほゆるかな)

  (釈)わすれ草の花も見ない今年の五月は、色香も薄く味気なく思われる。

忠廣解説

この哥の作意、牡丹も花を咲かさないと忘れてしまうと云う事なので、今年の春牡丹をある所から取り寄せて庭に植えてあったのであるが、この月にも咲かないでいたので牡丹の色香も忘れそうになったので、これが誠にわすれ草というのだと思ったのである。人の顔つきや姿かたちも年がたつにつれて次第次第に忘れそうになるように、なんとなく味気なく思えたので、恋しい人を思い出してこの哥にある言葉を紡ぎ出したのであろう。つらい時のありさまなのでこのような言葉遣いの哥も心に浮かび、書きおいたものであろう。

 

*改易となって庄内にやってきたのが一年前の六月十六日。季節があの時のつらい記憶を思い起こさせるのであろう。月並みな表現だが、花は散っても翌年また咲きだすように、彼のつらい思いは季節とともに忘れられることなく巡ってくるのであろうか。(加藤注)

平成30年2月7日

この稿続く。