180.心すみてねられぬままに思ひ見れば こぞのやさくはわたすよおいか

  (こころすみて められぬままに おもいみれば こぞのやさくは わたすよおいか)

  (釈)頭が冴えてどうしても寝られない夜、今日耳にしたことが頭を離れない。この頃家の修理をする者がいるとか、それは次の人に家を高値で売り渡す用意か。

忠廣解説

この哥の作意、同じ年の五月二十六日の夜、あまり眠られない頃おい、耳にした世間のことをあれこれ考えていると、このあたりの人の家でこの忙しい時節に家の修繕をしその周りの囲いや塀などを立派にしていると云う話を人から聞いていたのを思いだし、「今年は又国替えがある」と言って家中の者たちが屋敷の家作をしているのだと聞いていたので、気がかりなことを、このように書きつけたのである。

 

訳者解説

酒井公は庄内に入府してから一度も所替えを経験したことはなかった。ずっと後の天保年間に所謂「三方領地替え」の沙汰があったが、この時庄内の農民たちはこれに静かなる抵抗を示し、幕府から酒井公を守り、徳川幕府の権威を失墜せしめた。寛永十年、この時すでにこの劇的な物語のサブプロットが書かれていたのであろうか。忠廣公の気がかりはこの時杞憂に終わったが、歴史はまだ、その本当の姿を見せていなかったと云うべきであったのであろうか。

 

181.奥くちを一まい紙にかくちせつ くもはれて世に出づる心ぞ

  (おくくちを いちまいかみに かくちせつ くもはれてよに いずるこころぞ)

 (釈)百人一首を書きつけて来て、終わりの方の哥を一枚の紙に書くころになると、今まで覆っていた雲がはれ、世に出るような澄んだ気持ちになって来た。

忠廣解説

これも普通の世界に住む身となったことを、その場の口ずさみに書いたもしほ草(歌)なのである。五月七日、別紙にあることわりがき(理書)を見ると、

寛永十癸(みずのと)酉(とり)年五月六日、百人一首を順々に書いていくとこの頃の月日で言えば今日の五月六日は歌書(百人一首)の奥の哥二首を一枚紙に書いて、その次にさし口の哥(初めの哥か?)を書くことになって、二十六日(四月二十六日か?)に一つの紙に歌書の哥を、即ちくちおく(金銀などでふち飾りをすること)を書き記したのを思い出して見れば、たくさんの哥が載っている歌書のうちを、即ちくちおくを一つの紙に今日書いて、すっかり根本の道理がわかり澄みわたった気持ちがしたので、わが身の憂きことも澄んで、それをやがて許されて世に出るこころと思って、その場で詠んだ哥なので、二十六日の手習いの紙(心に浮かぶままに古哥などを書き記したもの)にこの歌を書きつけておいた、

と。ことわりを書く紙に、ありのままを書きつけておいたものであろうか。

 

訳者解説

良くわからない。原文にある、「奥くち」(終わりの方の哥)、「哥書のおくなる二しゅ」(歌書の奥の哥二首)、「さし口の哥」(初めの哥)、「くちおくをかきしるす」(金銀などでふち飾りをする)など、わからない言葉だ。かっこの中が私の苦肉の訳だ。

日付も分かりにくさを増した。途中から忠廣公自らの引用文になっていることに気づいて、一段落として引用文であることを示した。

173に、定家卿の筆に心酔する自身の様子を描いていることから推測すると、書写をこのんでしていたのかもしれない。百人一首の哥を書き写すことで、憂鬱な気分が晴れて行ったと云う事が書かれている。自筆の「塵躰和歌集」の写真の一部を見ると、達筆とは言えないが、書きなれた流麗な字であることが分かる。

この稿続く。

平成30年4月1日