2018.07.11 加藤清正歴史研究会
加藤忠廣「塵躰和歌集」全訳(43)英数研究セミナー加藤敦
同(五月)七日
182.あさがほのたねまく庭の詠めにも 露の情ぞうきものとしる
(あさがおの たねまくにわの ながめにも つゆのこころぞ うきものとしる)
(釈)朝顔の種をまいた庭の花の咲くありさまを思い浮かべて見ると、はかない露のようなものだなあと、しみじみとさびしく思われる。
忠廣解説
この哥の作意、同年卯月(4月)の朝早く、庭を見て朝顔の種を庭の葦(よし)垣(がき)の根に植えさせ、松の木のまわりにも植えさせた。朝顔の咲く時の事を思い浮かべ、はかない短命な花なので、自分も浮世の身の上であるが、あれこれとこの花のはかなさがこの世のありさまと重ねて思いを深めながら読んだものだ。
同八日
183.うしと見し浮世の人の中にても そむかぬ情ありし物をや
(うしとみし うきよのひとの なかにても そむかぬこころ ありしものをや)
(釈)あさはかで厭わしく見える浮世の人々の中にも、人の情けに背かないけなげな心の持ち主がいたのだ。
忠廣解説
この哥の作意、同じ年の卯月(4月)二十七日の朝食などを出す時分に、人々は皆自分のことのみを先にしているのに、ある者たちは、宿々に貴人のいなくなった時に、日頃の私の教えを身につけていることをみごとに見せてくれたよ、と思ってこの歌を書き五月八日の塵躰和歌集に書きつけたのである。
いつも人にとって大切なこととして「きりの心」(その瞬間を大切に生きること)を言い聞かせながら、身辺で使ってきた二人の者がいて、宮使いを続ける者の中で、この者たちは他の者たちと違って常に情けをかけおく者たちであったので、何事に関しても余すところがないと思うくらいに、すべての事に安心して任せられるれるほどになり、これまで情けをかけてきた気持ちもそれほど無駄ではなかったと、心の底で思っていたあかしに、今朝おりいって役に立ったのである。
訳者解説
「今朝おりいって役にたった」とあるがこの場面で、どのような物語があったのかわからない。ここに登場する二人の「人の情けにそむかないけなげな心の持ち主」とは誰なのか。一人は先ごろ成人となったしげさんであろう。ではもう一人は、しげさんの姉妹と見るべきであろう。なぜなら、「この者たちは他の者たちと違って常に情けをかけおく者たち」と忠廣公が書いているから家臣の家族ではないことは見やすいであろう。
私たちはしげさんの姉妹が不明ながら、父親の玉目丹波とともに、会津へ行っているものと思っていたが、実は、江戸屋敷から忠廣公の一行に加わっていたと見るほかないのである。考えて見れば玉目丹波が会津へ流されたのは十四年前のことである。であるから翌年十五歳の成人となったしげさんは父親の会津藩配流の年に生まれた人であり、この時点でしげさんに妹はいないはずであるから、もう一人の存在は姉ということになる。さらに、忠廣公の母の正応院、祖母の正福院までも忠廣公と行動を共にしているのに、十四五歳の少女が別行動を取るはずもないのである。これまで父丹波とともに会津へ行ったという妹とは、実は会津で生まれたと云うことであろう。二人の男子のうちの一人もそこで生まれているようであるから。(「加藤家の人々」P109)
ところで、出羽庄内藩酒井家の文書「大泉紀年」に次のような記述がある。孫引きで恐縮だが、上掲書から引用させていただく。
「しげと申す女 いとこ。切米の儀は江戸にても爰許(ここもと)にても入次第遣申候。年は三十七にまかり成候。加藤左内旗本衆にて御座候。是(これ)姉(あね)婿(むこ)に候。江戸に参度と申候。」
承応二年六月八日、忠廣公が亡くなった加藤家は解散となり、出羽丸岡の人々は各自の希望する土地に移ることを許され、多くは親類縁者を頼って各地に散って行った。住居移転、職業選択の自由がなかった当時としては異例の寛大な措置であったと思われる。改易から二十二年という歳月が流れていた。側室しげに関する記述である。
加藤左内は加藤正方の養子で、将軍家光の時代に召し出されて旗本となっていた。
しげさんの姉は忠廣公の養女として、出羽丸岡を離れ加藤左内に嫁していたと云うのが本当であろう。忠廣公亡き後しげさんはこの姉を頼って江戸に出たいと述べているのである。忠廣公と運命を共にし、忠廣公に一心に尽くしたこの二人の姉妹の有為転変を見るのは悲しい。
しかし、しげさんには庄内に、二人の子供が残っていた。大まかに言うと十八歳にもなっていなかったであろうそれらの子供を残して、本当に江戸へ行ってしまったのであろうか。私はしげさんの墓が庄内のどこかのお寺にあると云うことの方に賭けたいと思っている。
ところでこの家中の人たちが朝の忙しい時にどのような動きをしていたのか気になるところである。
この稿、続く。
平成30年7月11日