山形旅行備忘録

2019年令和1年8月8日

健一様

成田空港へタクシーで向かう。羽田方面は渋滞で、車が進まなくなっていると、タクシーの運転者は教えてくれた。驚いた。まったく考えていなかった。私が向かっているのが羽田空港でなかったことで、まずは一安心する。私は良い方向に向かって進んでいるのだということを信じた。

仙台空港へ向かう機は、プロペラ機である。学生のころ中標津空港から乗ったYS-11を想起させる。しかしあれはとっくに飛んでいないのだ。

健一さんと会う。24年生まれ。日本中を仕事で回ったさまは祖先の動きと重なると言う。この世から消えたものは、みんなまたこの世によみがえることを願っているのだろう。死者をよみがえらせ、物語を与えるのは生きている者にしかできない、生きているものの役目だ。

私は忠廣公に呼ばれた。忠廣公をよみがえらせ、「無法な改易」の恨を晴らしてあげなけれ ばならない。これが私の役目なのだろう。そのために選ばれたのだろう。

 

 

8月9日(金)

健一様

山形2日目、バスで温泉宿を離れ、鶴岡に向かう。

駅前の日本レンタカーで軽自動車を借り、都合良くいったん押切新田に向かい近辺の様子を観察し、その後、観光部観光物産課の課長補佐阿部知弘氏を訪ねるべく鶴岡に向かうも、途中ファミマでアイスコーヒーを飲んだ後、あろうことか財布,手帳などをそこへ置き忘れるという失態をなし、阿部氏はおろか、寿一氏への連絡の手段もたたれるという事態に直面し、焦ることこの上なし。

その後何とかファミマを発見し、財布などを(これそのものは奇跡的なことだが、わが国では普通のことでもあり)取り戻し、なんというかそのことで、午前の大切な時間を空費し、阿部氏とはついに会えず、(幸いなことにアポを取っていなかったのですが)、それというもの、何事も予定通りにいかないとの読みがあり、アポはほどほどにしておいたのです。  

 寿一さんの案内で、加藤家のお墓の残滓を見、花を手向けました。炯々たる雑草の中に隠れ、いかにも小さく哀れでした。持って行った菊花を供えさせていただきましたが、あまりにも狼藉たる有様に、蠟燭と線香は控えました。  

 そのあと、丸岡城址へ行きました。たくさん写真を撮ってきましたよ。私にとってはただの観光地ではないはずですが、観光地並みに写真を撮りました。清正門に合掌してきましたが、ご家臣の墓に気づかず。次の機会にといたしました。

 この文は2日目の宿泊先のアパホテルで書いております。明日は少し落ち着いた動きをしたいと思っております。忠廣公の本住寺、荘内での初めての宿泊先となった常念寺、と丸岡開墾場を予定しております。 

 8月9日

加藤敦 拝        

 

健一様

 8月10日

 今日はまことに不思議なことが起こり、他人には誰にも信じてもらえなさそうに思われます。身内を別にして。

 アパホテルを出て、近くの日本レンタカーで車を借り、忠廣公の本住寺へと向かったのです。本住寺には忠廣公と、母親の正応院、さらに家臣の墳墓がありました。

私は忠廣公の墳墓を目指したのです。どういうこともなく、以前から、もし忠廣公と会えたなら、忠廣公のほうから「感謝の」 何らかの合図がなされるであろうと考えていました。具体的に言うと、「雷がけたたましく鳴る」であろうと、なんということもなく思っていたのです。

 昨日は、丸岡城址へ行ってきましたが、快晴で何事もなく済みました。真っ当なことでした。

 ところが今日は違って、レンタカーを借りると雨が降り出し(雨の予報はなかったのです)、私は店の傘を借り、突然の雨を呪いながら、車を走らせていると、雨は勢いを増し五月雨のごとく降り募り、車のワイパーもフル稼働し、簡単には収まりようがなさそうに思われました。その時、雷がけたたましく鳴り出したのです。

そうしてようやく私は、不分明ながら「雷の約束事」に思い付いたのです。これが私と忠廣公が交わした暗黙の約束だったと思います。いつの間にかそういうことになっていたのでしょう。

家臣たちの墓石に水をかけながら、私は先ほどの驟雨のような雨のことを思い出し、忠廣公が私が到着する前に、墓石群を洗い清めてくれたことにその時、ようやく気が付いたのです。

吾妻鑑のこと私は、まだ語れるものを持っておりません。少しお待ちください。

810

敦 拝

 

 

 

811日(日)

 4日目、加藤家の代々の墓を発見できずに終わったことで、きょう一日墓のために費やす心づもりでいました。朝の9時、ホテルからまっすぐ押切新田に向かう。何度通っても迷いながら行くのには何かわけがあるのでしょうか。歓迎されていないかと思いつつも、辛抱強く向かう。昨日の寿一さんの見立ては違っていて、健一さんにもらった写真のコピーに照らして、その反対を入り口とみなしていくと、草ではなく、大木などの枝がお墓群を覆い隠していることがわかりました。草であれば垂直ですが、枝木の葉は斜めからすべてを覆いつくすという有様になっていて、一端ですら見通すということができなかったのです。

DIYで買い求めた草刈り鎌で太い枝を切り落とすと、墓地の全容が見えてきました。日が当たらないので、下草は少ないのですが、天を目指すつる草が墓石に執拗に這い絡まって、まるで墓石の生き血を吸っているようで、不愉快極まりないものでした。石ですから、とにかく石ですから、とはいえご先祖様がそこにいらっしゃらないとは誰にも言えないことです。

私は自分の仕事をし、途中、初日に泊まった「田田の里」の温泉に浸かりに行きました。

本日はアパホテルは満席で、ルートインというホテルに泊まっています。温泉があり、浸かってきたところです。本日2回目の温泉でした。

お墓は水で清め、供花、線香、私のできることはしました。

811

敦 拝

 

 

健一様

 仙台ではお手数をおかけしました。ありがとうございました。加藤家のご先祖が鷹匠であったらしいこと、清正、秀吉、酒井公、木戸孝範が顔見知りであったことなど、このような団欒があったから、後に酒井公が忠廣公を大切に扱ったことを自然に理解することができるのですね。今まで白黒だった写真が急にカラー写真に変わったような目の覚める思いがしました。

歴史の英雄にしか見えなかった清正公が、急に近くにまでにじり寄ってきたような気持です。清正公が茶の湯、俳諧連歌、和歌などを家臣に奨励していたこと、その中から西山宗因のような人物が現れたこと、また、清正公の室の清浄院が、加藤正方(風庵)に清正公の遺産の一部を京都の俳壇のために(もっと広く我が国の文芸のために)支出することを許したという私の仮説は、荒唐無稽なものとは言い切れなくなったと思います。

のちに花開く元禄文化の先駆けに清正公の遺産が使われたとしたら、世間の人々は驚くでしょう。松尾芭蕉が山形を訪ねたことも、あながち偶然とは言いきれないのです。専門家は笑うでしょうが。

宝永二年逝去の華林貞紅大姉さんが忠廣公の娘だとし、忠廣公が山形に来て3年目頃に生まれた女子だとすると、とてもよく合います。しかし享年70歳となり加藤家としては短命なほうとなるでしょう。性山道見居士がその子だとすると、華林貞紅大姉40歳の時の子供ということになります。

日常生活に戻っております。発見がありましたら教えてください。

令和1819

敦 拝