健一様

今回初めてお会いしてからもう1か月になります。いろいろ思いを巡らせていると、私の思考がだんだんと立体的になってきているのがわかります。

 武将たちの位相は、一般的な見方でいえば、歴史すなわち戦ですが、こまごまとした日常生活は、戦ではなく、源氏物語であり、俳諧であり、茶の湯であったのが本当のところではなかったかと思うようになったのです。いわば、二重構造すなわち二つに乖離していたのではないか。しかし、本当の生活は後者にあったのではなかったか。

 武家は見栄のために「源氏物語」を所望したと揶揄する学者がいますが、本当はあこがれていたということでしょう。その能力のある者たちは「武」と同様の価値観を芸術に置くことができたのではないか、そうして知られざる豊かな世界が、我が国のそこかしこに裾野広く広がっていた。

 その筆頭が、下冷泉家であり、私たちの祖先である木戸孝範、範実、直繁―忠朝(兄弟)、範秀(木戸元斎)の系譜でしょう。松尾芭蕉の「おくのほそ道」を少し引用します。

 

『最上川乗らんとし、大石田といふ所に日和を待つ。ここに古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花の昔を慕ひ、芦角一声の心をやはらげ、この道にさぐり足して、新古ニ道に踏み迷ふといへども、道しるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流ここに至れり。』

 

「ここに古き俳諧の種こぼれて」とは、木戸家が和歌、俳諧をこの地にもたらしたことを言っているのでしょう。それが戦国の心を和らげた。しかし、この地で広がった文芸も、しょせん「みちのく」(僻地)であり、新しい動きをとらえきれない。それを先導する案内者も、もういない。だからやむに已まれず、わたしが俳諧連歌の一巻きをするお手伝いをしたのであると。

 

芭蕉はさすがにというか、木戸元斎の動きを知っていたのであろうとおもいます。山形では、豊かな商人、農民、武士の間で、俳諧連歌が細く長く行われていた、このことをもっとよく調べなければならないと思います。「奥の細道」という作品は、上からではなく下から(芸術からではなく、人々の生活から)研究される必要があるかもしれません。

9月4日

敦 拝