健一様

月末休暇を利用して、今、群馬県利根郡みなかみ町月夜野に来ています。

10年前に、真田沼田城に預けられ父親の忠廣公の死の報を聞き自死したと言われている藤松正良公は、実は死んでいなかったという説を読み、真実と確信して以来この日を楽しみにしていました。

 

高速道路が沼田に入ると、畑や路傍の草むらに白いものがのっかっていました。高速を降りると、道路の隅に溶け残った雪が少し見えていました。宿で聞くと昨晩相当激しく雪が降ったとのことです。

みなかみ町後閑に近いひなびた温泉宿に23日で逗留することとしました。

 

本日日曜日は市役所など、お休みなので、とりあえずといった気持で、長く見慣れた写真の場所を尋ねました。

藤松正良は、死後というと変ですが、加藤文左衛門と名前を変えて、家来と共に月夜野町に住み始めました。その本では彼らは土木工事に秀でており、真田の思惑なのか、自発的なのかはわかりませんが、みなかみ町の新田などの開発に携わったというのです。月夜野町、坊新田町(城下町)は彼らが開発したと本には書かれています。

大変な集団です。みなかみ町、沼田の恩人でもあります。

 

そこは10年前に読んだ本の写真とほとんど変わっていませんでした。私は車をいじっていた男性に、「清正の孫の藤松正良公がここに住んでいたという事をご存じですか」と訪ね、「正良公は加藤文左衛門と名乗り、その後、後閑家を名乗るようになった」というお話をすると、「うちは後閑と言います」、とおっしゃるので驚きました。

「古い話はおじいちゃんが相当詳しかったが2年前に死んでしまった」と言います。そして「実家はそっち」だと言って、まさに写真にある後閑家に私を案内してくれました。

家はいまはコンクリートですが以前は土間だったでしょう。火事に遭って明治に建て替えたそうです。斜め前の実家は江戸時代の建物という事でした。火事の話が出ましたので、「文左衛門は江戸時代にここで3回も火事に在っています」とお話ししましたところ、驚いていましたよ。彼はそのたびに完全に復興したようです。

実家では、おばあちゃんが親切でした。その子たち、当主の方もその妹の人も親切でした。

歴史に詳しい人を紹介してもらいましたので、明日、生涯学習課を訪ね、その人物についても聞き、その上でお会いしようと考えています。その人というのはお坊さんだそうです。

当地では承応2年(忠廣公がなくなり、藤松正良など家来たちが月夜野町に移り住んだ年)に月夜野町に住み始めてから350年という事で、町でも歴史熱が高まり、勉強会などを開いたところだそうです。ちょうど都合がよかったかもしれません。その歴史の中に加藤文左衛門の業績も加えてもらえないものかと期待するところです。

西郷隆盛が、薩摩長州の武士を連れて攻めるために江戸に上った時、この家の前を通ったそうです。そして、彼の家に西郷が宿まったと言っていました。おばあちゃんは「昔は狭い道路で」と言っていました。

承応2年という年号が盛んに彼らの口から出ました。私が知っている承応2年と、彼らが言う承応2年はやはりどこかでつなっているように思えます。

敦 拝