健一様

 見知らぬ土地で、複数の訪問地を次々と訪れることはたとえカーナビがあっても骨の折れることですが、まして、そのカーナビが20年落ちという事になるとほとんど悲劇的という様相を呈します。午前中はほとんど逆方向に案内され神経をすり減らしました。

 

 ではありましたが、素晴らしい出会いもありました。昨日後閑さん宅で一瞬名前の出た嶽林寺を何気に尋ねたところ、ご住職に待ってましたと言うばかりに中に案内されたのです。

 承応2年(1653年)父親の加藤忠廣公がなくなった年に自刃したとされる藤松正良公が、13年後の寛文6年(1666年)12438歳で亡くなり、嶽林寺で葬儀が行われたというのです。この寺が菩提寺であり過去帳に確かに名前(戒名、無垢院殿浄叟良清居士)が載っているというのです。

 ところがその墓がどこにもなく、ご住職も江戸時代の出来事であるこのことで知る由もありませんでしたが、156年前に、その墓を自ら見つけてしまったのです。「見つけてしまった」というのは、ただそれだけでは終わらなかったからです。

 「藤松正良が咲う」の著者、田原芳雄氏が「墓碑との出会い」で次のように書いています。

 

「うちの墓地隣りにど偉い戒名の墓碑があるので見て」と言ったのは土地の古老だった。

 

ご住職はこの古老というのは自分のことだとおっしゃった。どうも「古老」という言い方が気に入らなかったのかもしれません。

ご住職は田原氏に調査を依頼し、そのどえらい戒名の持ち主が自分のお寺の檀家であることを確認し、田原氏はその墓碑をいったん「預かった」ことになっていたのですが、その後その墓碑が行方不明になり、さらにかんじんの田原氏がなくなってしまった今、ご住職は途方に暮れてしまっていたわけです。

ところが千葉から私加藤がやってくるという事になった23日前に、ご住職は再びこの墓碑群を発見したのです。いつも行く「奥の院」の上り階段の左の片隅の奥に、北を向いて立つ7つの小さな墓碑群を見たのです。

「おや、ここにいらっしゃったのですか」と思わず声に出して言われたそうです。7つの墓碑、13名のお方は皆ご住職の檀家でした。そこに「無垢院殿浄叟良清居士、」と妻の戒名が書かれたものが一つありました。私がこの旅で見たいと思ったものでした。それは意外に小さなものでした。

ご住職は「そこは私にしか分からない」と言って、私を現地に案内してくれ、墓碑群の前で、有難いお経をあげてくれました。

あるいは迷っていたかもしれない人々が、千葉から私が来るのに合わせて姿を現してくれた。有難いご縁ですとおっしゃって、私に感謝までしてくれました。読経が済んでから、

たくさんの写真を撮りました。墓碑の写真、私の写真、ご住職の写真、たくさん撮りました。また来てくださいとご住職は私におっしゃり、帰途に尽きました。まったくなんというめぐりあわせなのか、驚嘆のほかありません。

帰り道、後閑さんの家の前を通りましたので、車を降りご住職のことをご報告しました。この地ではご住職を知らない人はいないのですね。

今日はほかに、沼田市役所生涯教育課、みなかみ町役場教育委員会を尋ねましたが、歴史は、「藤松正良公自刃」で止まっていました。私が知りたいのは「それからの正良公の歩み」でした。沼田市の女性職員から、「何か新しいことがわかったら教えてください」というお言葉をいただきました。

今一人お会いできなかった人がいます。お手紙でご報告くださることになっております。明日は新坊田町の日蓮宗妙光寺、同じく安楽寺を訪問し帰途に尽きます。

長くなりました。これで止めます。

敦 拝