同三日

(209)いにしへは錦もかけてしきむしろ うきみなつきぞひとござの床

  (いにしえは にしきもかけて しきむしろ うきみなつきぞ ひとござのとこ)

(釈)昔は金襴豪華な錦を掛けて寝ていたが、この憂きみなつき(六月)も一人寝の茣蓙の床

 

忠廣解説

 この歌の作意、みちの奥里に来るという事で、茣蓙を一枚だけ自分の分だけ持ってきたので、去年の同じ六月、長い道中をこの茣蓙一つで過ごし、夏の暑さも凌ぐこともできなく、今年の六月にも相変わらずこの一つ茣蓙に起き伏しし、これもうき身の上のことと常に思いながら、それでも尚憂鬱の思いが募り、平穏だった昔のことを思い出して今の憂鬱な気持ちを詠んだものだ。

 

(訳者解説)

 当時は今のような畳のない時代で、縁取った畳表のようなものを(茣蓙と言っている)床に敷いて寝たのであろう。原文の解説に、「ござ壱枚ばかり、かたかたをもちてくれば」とあるが、妻はいないので、自分の分だけ持ってきたと解釈したのである。

何が何だかわからない改易から一年たって、未解決の悔しい思いをありありと思いだし、

憂鬱に陥っている彼を慰める人はだれもいないのだろう。

 

 寛永十癸(みずのと)酉(とり)年六月五日

(210) うき身なもすてておく路へこぞのけふ 出立あはれ思ふも思ひ

  (うきみなも すてておくじへ こぞのきょう しゅったつあわれ おもいもおもい)

(釈)つらい思い出も名前も捨てておく路へ向かった去年の今日、出立した時の胸がふさがるような遣る瀬ない思い。あの時の辛い思いは今も消えない。

 

忠廣解説

 去年の六月四日に、最も憂鬱な時を過ごした本門寺を出て、みちの奥路を目指して出立した時のことを再び思い出すと、あらゆること悲しい出来事などをいよいよ思い、なぜこうなってしまったのか、自分にはどうすることもできないことごとの片鱗を詠んだものだ。

 

(訳者解説)

 熊本藩加藤家を改易するにあたって、幕府は決定的な理由を見出せなかったので、いろいろな理由を挙げ一つに束ねることにし、極悪犯罪であるかのように仕立てたのである。いわく「十六か条の質問状」

忠廣公はそれらの質問に答え、身の潔白を証明するために熊本城から江戸に向かったが、幕府の役人によって、江戸に入ることを止められ、品川宿の池上本門寺に一時とどまるよう要請された。

結局忠廣公一行は弁明する機会を与えられることなく、江戸屋敷で旅の疲れをいやすことも許されずに六月四日、熊本から同行した家臣の武士12人とその家族、忠廣公の母正応院、2代目玉目丹波の娘、すなわち従姉妹の二人、お女中などおよそ50名の集団となって庄内を目指したのである。

ところで、正応院などは忠廣公の庄内行が決まってから、江戸の加藤屋敷から合流したものであろう。二人の従姉妹や、ご家臣の家族たちはどのようにして庄内へ行くことになったかよく調べる必要があるだろう。

ところでかんじんの加藤家改易の原因であるが、以前に書いているので省略したいところではあるが、簡単に言えば、忠廣公の二人の妻、家康公の孫である崇法院と、馬方牛方騒動で処分の対象となり会津藩に流された二代目玉目丹波の娘、すなわち忠廣公の従姉妹である法乗院の二人の妻の内、忠廣公が心底愛したのが選りによって罪人として処断された玉目丹波の娘だったことが、徳川には許せなかったのであろう。

だからと言ってそれを理由に加藤家を改易するなど、徳川のメンツのかけてできるものではない。その事によってさまざまな理由が付けられることとなり、このことがかえって忠廣公を歴史的にも貶め、深く傷つけることになってしまったのである。

忠廣公が女色におぼれ、領民につらく当たり、などという事はすべてもしあったとしても、針小棒大な言いようであろう。

改易の時に二十歳で、遊学していた京都からこの事件で急遽熊本に呼び返された俳人西山宗因は「肥後道記」に次のように書いている。

「四十年あまり二代の管領にていまそがりければ、たけきもののふも恩沢のあつきになつき、あやしの民の草葉も徳風のかうばしきになびきて、家とみ国さかへたるたのみをうしなひてより、所なげにまどひあへる事、ことはりにも過ぎたり。」

 

令和465

この稿続く。