(219)夕顔とつつじの花のさきしには 白き赤きもながめ一色

 (ゆうがおと つつじのはなの さきしには しろきあかきも ながめひといろ)

(釈)夕顔の花とつつじの花が一度期に咲いた。白い夕顔の花も赤いつつじの花も、一体となって見事な眺めだ。

(忠廣解説)

この歌の作意。同じ十一日の申の日、その日の歌として詠んだものだ。この二色の花が同時に満開に咲いて、眺めがひとしおだった。いずれにしても、いろいろな花の盛りを見ると美しい心持ちになるのは、皆が同じ心になることができるからである。それは思いもよらぬ素晴らしい良い心なのである。

五色の色であっても、盛りを過ぎた花は心にかかる。幾色であっても盛りある時の花の眺めは良い心を、いわばあらゆる物の良い時の心であるべきなので、と考えてくると、赤い花も白い花もどちらも美しいと思う心は、人々に共通の心であるに違いない。「一念三千の心」(深い一念の思いは、この世三千の世界に通じる心である、という意味か―訳者)にも通じる心、言の葉と言っても良いものがあるだろう。そういう心であるべき。そういう心であるべき。

(訳者解説)

  満開の花を見て感動する心について、自分の考えを述べたものである。表現の細部にこだわりがあり、現代文に直訳すると間違いなく台無しになってしまう。自分が感じたことを感じたとおりに書いているからである。

 感動の源を構造的に論じたものと言ってよいだろう。吉本隆明「言語にとって美とは何か」を想起させる。つまり、人が言語を発する時、心はどういう構造になっているか。忠廣公も四百年前に類似の問題意識を持ったことが察せられる。 

令和4630

この稿続く。