寛永十癸(みずのと)酉(とり)年六月十六日
ことのはにおもひつづけし塵躰和歌集也。かくことわりはおくにあり。
(223)一榮の花の種まく臺までも むなしき夢やいざよひの月
(いちえいの はなのたねまく だいまでも むなしきゆめや いざよいのつき)
(釈)再び家がさかえ、のちの世代が繁栄の種をまくこともないのではないか。むなしい夢だ。この十六夜の月のように。
忠廣解説
この歌の作意。人間の有様を見る十六夜の月は、この浮世の姿と同じだなあ、と思ったのである。一度栄えていた時には、家を建てて金銀が惜しくても、豪華にしつらえ、内外ともにすべてがまるで、花が咲き誇った装う。なんというよろこばしさ。その栄華の有様が今は一時の夢のように、見捨てられ、今の私は道の奥里の草屋で軒から登る月を眺め、一人で憂き床に物思う身の上である。こうして憂き身の住居になっていく有様は、まさに浮世の定めと思い取ってこう書いた。それは私のいつもの口ずさみなのであった。
訳者解説
まず、冒頭に「言の葉(和歌)に自分の思いを書き続けてきた塵躰和歌集である。書く本当の理由は、その奥にある」と書いた。その奥に深い思いが込められていることを忠廣公は重ねて注意しているのである。。
毎日月を見、月を知り尽くした忠廣公は、日々変化する月の姿や動きを人間の世界に引き写して思いを深めているようである。
自分も自分の子孫たちも、こののち繫栄することはないのだろう。この十六夜の月のように。
十六夜の月は満月よりも遅くためらうように出てき、進もうとしてもなかなか進めない。忠廣公もこの月の性質を知悉していた。まるで今の自分のようではないか、さらに自分の後の世代も繁栄しないのではないか、と。
こう書いた時、清正公の娘、あま姫(のちに古屋姫、本淨院)は将来徳川四代将軍家綱のもとで老中を務めることになる阿部正能を生んで身まかっていた。八十姫(瑶林院)は紀伊徳川家の徳川頼宜に嫁いでいた。(加藤清正「妻子」の研究を参照P128)
忠廣公にはこの時、飛騨高山に光正公、その妹、長野沼田には藤松正良公、亀姫がいた。
ところで、清正公、忠廣公の子孫たちは繁栄したかどうかであるが、繁栄したと言っておく。
令和4年7月14日
この稿続く。