同二十三日
(231)ありあけのなをもすずしき雲のなみ 光さやけき今夜見な月
(ありあけの なおもすずしき くものなみ ひかりさやけき こよいみなづき)
(釈)有明の月影に、白い雲がたち重なって涼しい水の流れを思わせる。今夜の水無月の光のさやけさよ。
忠廣解説
この歌の作意。有明の月が白く残る明け方の光が清く差しているのを眺めていると、つまり皆月(陰暦六月)の十五夜を眺めていると、白い雲がたち重なる空は、清く青く天に映って、それを水の波と見なすと、なおさらに涼しさが冴えわたるのである。それが有明の月にまさる美しさなので、こう詠んだのである。
訳者解説
夜が白々と明ける空にくっきりと十五夜の月が浮かんでいる。いつもそれにじっと対峙している忠廣公を、夏の朝の涼気を含んださわやかな大気が包んでいる。一人で月と共にいる静謐が自然の美をとらえる。同時に、五感ですずしさとさやけさを捉える。
まるでパスカルが風にそよぐ葦原に一人たたずんで、満天の星がきらめく宇宙に対峙した時、彼は人間の弱さと偉大さ(思考する人間はその思考によって宇宙をも飲み込む)、宇宙の強大さ(風のひと吹きが人間を滅ぼすこともできる)と思考することのない空虚な存在の宇宙を感じ取っていた。
忠廣公はパスカルのように哲学する余裕はなかったであろう。彼は一瞬一瞬の時の推移のうちに光瞬く自然の美を見出していた。しかもその美は一瞬のうちに移ろい、同じ美は二度と再びやってくることはないのであった。
同二十四日
(232)ひの光過ぎゆくとしも夢なれや 皆月けふの命日をとふ
(ひのひかり すぎゆくとしも ゆめなれや みなづききょうの めいにちをとう)
(釈)夏のひかり輝く日の光。あの栄光と輝きに満ちた時代ははかない夢であったのか。皆月の今日、父清正公の命日に問う。
忠廣解説
この歌の作意。父への思慕が止むこともない。亡くなって二十三年過ぎゆくことを思うと、心が沈む時、夢の中で夢を見ているのだと思えば心が軽くなる。その思いをこう書いたのである。理屈を言う必要もない。ただ心に思うだけである。
訳者解説
この六月二十四日は忠廣公の父清正公の命日である。清正公が亡くなったのは慶長十六年(1611年)六月二十四日、この時忠廣公はわずか七歳であった。忠廣公の本当の年齢は分からないというのが研究者の間でも言われている。
研究者でもない私が彼の年齢を断定するには理由がある。この塵躰和歌集に寛永十年(1633年)七月三十日に三十路(みそじ)、すなわち三十歳になったことが記されているからである。逆算して彼の生年月日は数え年で計算すると、慶長九年(1604年)七月三十日となる。
よって父清正公が亡くなった慶長十六年は、七歳であった。そこから忠廣公の嫡男光正公の年齢もかなり正確に推定できる。彼は世に伝わっているよりずっと若い。改易の判断を正当化するためであろうか、光正公の年齢はずっとかさ上げされているのである。
忠廣公が15歳の時に生まれたのであれば、改易の時数え歳で言えば光正公は15歳である。忠廣公が18歳の時の子であれば、光正公は改易の時わずか12歳。つまり12歳から15歳の少年を謀反の疑いありと言って切腹、流罪などにできるであろうか。罪に問えない年齢であったという事である。であれば加藤家改易の問題はそこになかった。
同二十五日
(233)みな月の十七日の夜る昼を うきたびねせしもがみ川かな
(みなづきの じゅうしちにちの よるひるを うきたびねせし もがみがわかな)
(釈)昨年の六月十七日の昼から夜中じゅうを、辛い思いを押し殺し小舟で旅寝した最上川よ。
訳者解説
又はなをししことのはのさま、かく也。
(234)みな月のこぞうきねせしもがみ川 十七日にいま思ひぞいづる
(みなづきの こぞうきねせし もがみがわ じゅうしちにちにいま おもいぞいずる)
(釈)去年の六月の今日の日、最上川を浮き寝した、十七日のことが今、昨日の事のよう にあざやかに思い出される。
忠廣解説
この歌の作意。去年の六月十七日、最上川にいかにも情けない青萱小船にのって浮き寝したのはちょうど去年の今日だったことを思い出した。去年の十七日の朝から小船で憂鬱な旅寝し一夜を明かした様が、船に浮かれながら今に至るもやるせない日々、あれから一年今年の十七日だったのを昨日の事のように思い出す。
訳者解説
この二首はセットである。一首目に忠廣公の解説はない。改易の判断が伝えられたのは、寛永九年の六月四日、忠廣公は苦悩と懊悩のただなかにいた。
この稿続く
令和4年9月10日