同二日
(241)夕顔の葉のうゑかさなりさく花の しろきをみればきえのこる雪
(ゆうがおの はのうえかさなり さくはなの しろきをみれば きえのこるゆき)
(釈)庭の垣根の青葉の上に重なるように咲く夕顔の花の、目に染みいる白さを見ると、まるで消え残った雪のようであった。
忠廣解説
この歌の作意。庭の葦垣の根に、生いでた夕顔の白い花が青葉よりも上に重なるようにして咲いているのを見ると、とりわけ消え残った雪かと思った次第の塵躰和歌集である。
訳者解説
現代で言えば7月頃の暑い季節に、いかに白いものとはいえ、雪をイメージするのは困難であろう。夏の季節に白い物を見て雪をイメージするのはなぜなのか知りたいと思う。
同三日
(242)引きのこす草むら野いねもみ椿の 露に色ましなさけ見るには
(ひきのこす くさむらのいねも みつばきの つゆにいろまし なさけみるには)
(釈)我が庭の草を引き抜いた後に残しておいた稲やみ椿も、水をかけてやると色が生気にあふれ、人への感謝の心がほの見える庭(には)であった。
忠廣解説
六月二十八日の夕暮れに、庭の草を引き抜いた後に残しておいたものの中に、稲や椿が混じっていたので水をかけてやると、水のおかげで緑濃くなり、残しておかれた稲草の感謝の気持ちが色濃さをいや増しにして、その時の人の気持ちがこの庭を見て自然に思い出したのでこう書いたのである。
訳者解説
「なさけ見るには」とは、「情け見る庭」(感謝の気持ちがほの見える庭)であって、「感謝の気持ちを見るためには」ではない。だからここでのテーマは庭という事になるのではないか。
忠廣公の作歌ではひらかなを漢字に当てる例も多い。ここの例では「草むら野いねも」は、「草むらの稲も」とするとよくわかる。
この稿続く。
令和4年9月19日