寛永十癸(みずのと)酉(とり)年七月五日

(245)筆の跡は遠き國ゑもつくしより 文づきへてもふきおくるかぜ

  (ふでのあとは とおきくにへもつくしより ふみづきへても ふきおくるかぜ)

(釈)手紙は遠い国へも届けることができるので、文月が終わっても風が吹き送ってくれる。

忠廣解説

 この歌の作意。この和歌に書いたように、手紙は遠い所へも行き来するものなので、手紙を遠いところ、私の物思いの中心であるこの知らない国へも、必要なちょっとした機会に行き来しているので、文月というこの月の名前に思いを込めてこのように詠んだ塵躰和歌集である。

 

訳者解説

 遠い飛騨高山から光正公の手紙が来たようだ。次の和歌で翌日、忠廣公はその返書を書き送ったことがわかる。光正公の解放が近づいていた。

 原文に、「筆の跡は遠所へもかよふ物なれば、文を遠所、心つくしよりしらぬ國へも、風のたよりにてゆききし侍れば」とあるので、手紙の往来は以前から行われていたと思われる。

 それはそうである。いつの日か藩主になるかもしれない長男の消息に、父である忠廣公が無関心でいられるはずがない。

忠廣公は京都にいる家臣を使ってあらゆる手段を尽くしていた。いわれなき罪の雪辱。加藤家の名誉回復。加藤家の再興。そのために清正公の残した金銀財宝を惜しげもなく費やした。そして復興資金に充てようとしていた。

 私の想像だが、風の便りの往来を担ったのは京都にいる家臣であったであろう。そうすると忠廣公は、沼田に配流された藤松正良公の消息にも通じていたであろう。

 しかし今ここで風雲急を告げていたのは飛騨高山の光正公であった。

 

  同六日

246)ちりつもる硯のなみもながれすみ 月影清きことし文月

  (ちりつもる すずみのなみも ながれすみ つきかげきよき ことしふみづき)

(釈)使い込んで墨が塵のようにたまった硯も、水清く流れ澄み(墨)、月影も清く澄む今年の文月。

 

忠廣解説

 この歌の作意。七月七日には硯を洗う行事があったので、その志を思い出してこの秋の月影が清いように今年の文月より書く和歌の言の葉も、よろずのことまでも私の願い通りに何事も私が思った通りに、願いが叶うべきとの頼みを思い入れたのがこの塵躰和歌集である。

 

訳者解説

 例年より一日早く硯を洗い清め、光正公に手紙をしたためた。忠廣公の願い通りに、思った通りに行ってほしいとの願いを込めながら。

 もし忠廣公の願い通りにいかなかったら、もし思った通りに事が運ばなかったら、すなわち光正公の身に不幸が降りかかることを知っていたからである。

この稿続く

令和4921