同七日

(247)たなばたはあまの川なみおもふまで 浮世はさらぬ別れもあるかな

  (たなばたは あまのかわなみ おもふまで うきよはさらぬ わかれもあるかな)

(釈)七夕には天の川の畔で愛する人々と再会する思いがただよう。かたや、浮世にはどうしても避けられぬ人との別れがあるのだ。

忠廣解説

 又、前には「おもひまく」(思いの種を蒔く)とも書いてある。これも晴れ晴れするような御心との思いはある。この歌の作意。七夕は「あまの川は愛する人との逢瀬の時、雨降るまで」との思いで一年に一度限りの契だとはいえ、幾年も幾年にも渡る変わらぬ契りなので、永遠の契でもある。人間の身の上、浮世のあらゆる思うことのかなわぬ世の中には、たとえふとした思いがけない事からでも、避けられない別ればかりがある。浮身の契においては思いとは逆に引き別れても、住まいに住んで生活していたのであれば、物憂い思いの数々が消えてなくなることがない。憂きことの絶えることのない憂き身の上のことがあれこれと思いだされ、このように思い書いた塵躰和歌集である。書讀置也(読み書き置くなり)

訳者解説

 忠廣解説最後の漢文は意外である。忠廣公の漢文は見たことがない。この解説は一般的な人生論のように書いてあるが、一般的な人生論としてとして読むことはできない。忠廣公の家族が経験することとなった理不尽な体験が、一般的人生論のように書かれているだけである。

 改易によって起こった懲罰としてのわかれ、無慈悲で情け容赦のない家族との突然の別れ。いやそれだけではない。しかしこれらが忠廣公の世界観をかたちづくっていた。

この稿続く

令和4924