同十四日 又いへる哥
(254)もののふのおほく物いふもりれい儀 あまの庵にもかかる夢のよ
(もののふの おおくものいう もりれいぎ あまのいおりにも かかるゆめのよ)
(釈)居並ぶ多くの武士の中で、一人多くものをいう森本儀太夫の礼儀。ついであま姫の庵が夢に現れた。夢の世。なんとなつかしい。
忠廣解説
こう書いた言の葉のさま、その理由などこまごまある。その故は、寛永十癸酉年七月十二日の夜、今は故人となった昔の武士たちのことを夢に見た。
清正公の前に先ず、床林隼人・森本儀太夫・坂川忠兵衛・並河志摩守・飯田覺米兵衛・三宅角左右衛門尉、この飯田覺米兵衛と三宅角左右衛門尉のふたかくは前から三人目にいて、そのほか皆多く集まっていて、分別めいたことを言う様子で語っていた。中でもとくに主人を尊敬し持ち上げる様子でことを言う景色。森本儀太夫が何か私に言っている様子がある。礼儀ある様子で、夢の中でも自分で覚えのあることと心の中で了解していた。
そのあとで、日昌(あま姫)に会って、ある露の庵で人の集まりがあり、座敷とおぼしいところで座を取り持ってにこやかにしている様子。私にこの集まりのことを細やかに説明する挨拶があって、夢中で見る日昌の顔は気高いまでに美しく端正で、洗練された上品さがあった。
かつて近習として日昌に仕えていた女、いなりという名の年寄りが常にそばにいて話し相手になっていた。その女房が日昌の脇に沿うようにして、書を書く様子をしている。
今はもう亡くなってしまったが、現生ではその御名を自らあまと言っておられたので、このあまの言葉を歌に入れることができてなつかしさに、すべて夢の中の事をあらまし書く理由にするのが私のこの心なのである。
歌よりも理(ことわり)として、いろいろなことも世の中に知らしめたいものだ。夢よ、ああ夢よ。
訳者解説
夢はどんな印象的な夢であっても、目覚めて明るい日の光の中に出てしまうと、なぜかすべて忘れてしまうものであるから、忠廣公は目覚めてすぐにすべて書き終えたものと思われる。
武士たちが大勢集まっている最初の場面には、清正公がおられたが、すぐに清正公がいなくなり、変わって忠廣自身が大勢の武士たちと対することになる。大尊敬は示しながらも、忠廣公にも自分自身胸に覚えのあることを、きっちりと指摘されている。ちなみに、忠廣公が熊本城の城主となったのは九歳から十歳の時であった。勿論この場面はもっと最近の事であったであろう。
忠廣公より六歳年長の腹違いの姉あま姫はよほど美しい女性だったようだ。あま姫の脇にいつも離れずにいなりという年寄りの女がいるのが、忠廣公には煩わしかったかもしれない。忠廣公と目が合うと、あま姫はほかの人には見せたことのない笑顔で答えてくれたことが、前の部分に書かれている。
この稿続く
令和4年10月15日