同廿日

263)はるばるとにほひぞおくるこころづくし 雲ゐのかりに公ばしきふみ

  (はるばると においぞおくる こころずくし くもいのかりに こうばしきふみ)

(釈)はるか遠くから香の香りを送ってくれる心遣い。空高く雁に芳しい香りを載せた手紙につけて。

忠廣解説

 この歌の作意、風の便りに、今一番気がかりな方角から、香が一包、ある人が手紙と共に我がみちのくの里に送ってくれた。手紙を静かに読み思いめぐらし書いた塵躰和歌集である。

 

訳者解説

 光正公が死去したとされるのは十六日であるから、飛騨高山から庄内鶴岡まで最短で十五日ほどで届くとして、この手紙が書かれたのは光正公の死去とされる日の十一日ほど前であろう。だからこの手紙には忠廣公が一番知りたいことは書かれていなかった。

 しかしここに大切な発見がある。「にほひ」、「こころづくし」、「こうばしきふみ」という言葉から容易に想像できることは、書き手の「さる者(ある人)」とは女性であること、すなわち光正公の母、徳川家康の孫でもあった崇法院であることである。

同時に、あの改易の直後、一度は京都本圀寺に姿を現し、その後消息不明になっていた崇法院はやはり、飛騨高山の光正公のすぐそばにいたことがわかったのである。

 

 同二十一日

264)ひややかに松風をとすここちせしは 蝉のなくねをききまがいてん(聞きまがゑけん、とも)

  (ひややかに まつかぜおとす ここちせしは せみのなくねを ききまがいてん)

(釈)秋が来て、ふと松風の音が冷ややかに聞こえたと思ったのは、もしかしたら蝉のなく音を聞き間違えたのかもしれない。

忠廣解説

 この歌の作意、庭に蝉のなく音を涼し気に聞いていると、松風の音がして、まだ暑いこ

ろなので涼し気に感じる気持ちにぴったりだったので、こう書いたのである。下の句の末

尾を「聞まかゑてぞ」(聞き間違えて)、とか、「聞きまかゑけん」(聞き間違えてしまった

よ)とも書いてあったが、「てん」とある方がましと思われたので、最終的に塵躰和歌集

に書き置いたのである。これ吉野山の満開の桜を眺めるような爽快な気持ちだ。

訳者解説

 これは季節の到来を松風の音として素早くとらえた歌だ。蝉の声を松風の音と聞き違え

たというよりは、忠廣公は蝉の声の向こうに、ふと松風の音が重なって聞こえたという事

であろう。そのことを言おうとしたのではないかと思われる。

 

同廿二日

265)初秋のなかばしらする白菊も よひよひならぬ月のゆふやみ

  (はつあきの なかばしらする しらぎくも よいよいならぬ つきのゆうやみ)

(釈)初秋も半ばに来たことを知らせる白菊の花も、いつもの宵の頃と違って、今は月のない夕闇の中で見ることはできないのである。

忠廣解説

 この歌の作意、七月も半ばを過ぎてしまったので、秋もすでに半ばを過ぎると、庭の白

菊の花も宵闇の中であろう。初秋の月も末になると宵の頃と言えども辺りは闇で、月も眺

めることができなくなってしまったのだ、と思ったのがこの塵躰和歌集の心である。

 

訳者解説

陰暦の七月十九日を過ぎると月の出が遅くなり、宵の頃は月の出がなく、暗いままである。初秋の半ばを知らせる白菊の花も、月のない夕やみにつつまれて見えなくて残念だというのがこの歌の心なのであろう。

 

同二十三日

(266)思ひしのぶわれが心にひきかゑて 秋ほに出づる庭しのすすき

 (おもいしのぶ われがこころに ひきかえて あきほにいずる にわしのすすき)

(釈)我が子のことを誰にも告げられずに耐え、思い続ける我が身に引き換えて、庭のすすきの心はもう、穂になって出てしまっているよ。

忠廣解説

 この歌の作意、心を一身に集めて人を思う事、じっと忍んでいさえすれば、誰にも気づ

かれないだろう。私のその心に引き換えて、秋になればもう耐えることができない庭のす

すきはね、もう穂に出てしまっている。心と反対にそういうものだとすすきに喩えて思い

続けた塵躰和歌集である。

 

訳者解説

誰を思いしのぶのか。それは我が子光正公しかいないであろう。光正公が今置かれてい

る事態は語ることはおろか誰かに相談することも、不安を口にすることもできない極秘事項であったことがわかる。

同居していた実母の正応院にも、信頼する家臣にも、従妹のしげさんにも忠廣公は固く口を閉ざし一人で耐えていた。ちょっとした油断が、弱気の心がたちまち災いをもたらすのは間違いない。誰かが口を滑らし、たちまち噂となって広まってしまうのは火を見るより明らかだ。そうなれば、すべては水泡に帰する。

 それに比べて、自然は、すすきは隠すことは何もなく、正直でいい、そんな思いがあった。

この稿続く

令和41024