同晦日

275)夏ををしみ初秋までもみそぢ日を そへて月すむながめことなり

  (なつをおしみ はつあきまでも みそじびを そえてつきすむ ながめことなり)

(釈)みちのくの短い夏をおしみ、季節ははや初秋となった。私の三十路(みそじ)日(び)を祝うように月が澄み、それとともに、わが心も晴れてあたりの景色が一変した。

忠廣解説

光正が解放された十六夜(いざよい)の日から、もう三十日のつごもりとなった。また、この七月に私も三十歳となったので、もともとどれだけ眺めても眺め飽きない月を愛して、このようにつごもりを経るまで家族のことを深く思い続けてきたのであろうか。十六夜から(十六日)眺め続けて月を見て心の迷いがなくなることを詠んできたのである。右に十六夜と書いたが、六月の頃のことを言おうとしているのであるか、いいえ違う。

寛永十癸(みずのと)酉(とり)年八月一日の歌に書いた。この歌の作意、同じ年の七月廿余日の曙の夢に鮮やかに二度までもこうばしみ人(崇法院)、なでしこ(光正)、やなぎ色(光正の妹)、皆が解放されて世に出て会って、私はこうばしみ人には袖を重ねて、言葉で尽くせぬ夫婦の情を尽くして物語した。年月の望みがようやく叶った思いであった。そのほか京都にいた家臣たちも寄り集まって、私自身と母子三人と供の者まで一緒になって喜び合った。その喜びは尽くせぬほどだった。すべてすべて良い事だけで祝いの心だけであった。その歌に、(*(276)の歌に続く。)

訳者解説                                                                                  

この歌と、忠廣解説から、忠廣公が寛永十年七月に数え年で三十歳になったとがわかる。忠廣公の年齢にはいろいろ議論があるようであるが、これで決着していただけるだろうか。

また、次に原文を引用すると、「月を見てすむことを読侍ける也。」とある。これは「月を見て心が澄むことを詠んだ」という意味であろう。私は分かりやすく「心の迷いがなくなることを詠んだ」と訳しておいた。

つまり、忠廣公は月を見ていると心が澄んできたという事を述べている。忠廣公が毎日のように月を眺め続けてきた理由がここに明示されていると考えてよいであろう。

 ついで、忠廣解説の後半に驚くべきことが書かれている。

 寛永十年七月十六日に何が起こったのか、忠廣公がじっと動くこともできず、天の神に祈るほかなかった、その結果がおそらく家臣によって忠廣公のもとにもたらされたのである。飛騨高山から鶴岡まで最大で十四日間の行程であった。この忠廣公を苦しめた十四日間は、忠廣公の寿命を縮めたかもしれない。

 光正公は一般に命日と考えられているこの日に高山城主金森重頼公の恩情によって、解放されたのである。幕府の検視が検分した塩漬けにされた遺体は、別人であるほかなく、法華寺にある光正公の墓に埋葬されたのもその人であろうと思われる。

 七月十六日の出来事を忠廣公は家臣から聞かされた。神速で吉報をもたらした家臣は大事を取って一人ではなかったであろう。しかしこれを迎えたのは忠廣公ただ一人であったに違いない。これ以上ない吉報であっても極秘であることに変わりはないからである。

 「同じ年の七月廿余日の曙の夢に鮮やかに二度までもこうばしみ人(崇法院)、なでしこ(光正)、やなぎ色(光正の妹)、皆が解放されて世に出て会って」とあるように、明け方に解放されたことを皆で喜び合っている夢を続けて二度も見たのである。忠廣公自身もそこに加わっていた。

 この夢は家臣によってもたらされた事実がそのまま忠廣公の夢の中で再現されたもので、単なる夢ではないのである。同じ夢を二度までも見たという事は、明け方の夢によくあることで、夢を見ている者が半睡半覺の状態で、同じ夢をもう一度見たいという思いが強い時に現れる現象であろう。そこから忠廣公の幸福感の大きさが伝わってくるのである。

 忠廣公の夢に現れた「こうばしみ人」は崇法院である。これを忠廣公が最も愛する法乗院と解する研究者がおられるが、これではすべてがぶち壊しになってしまう。

原文を引用すると「公ばしみ人には、袖をかさね、ひとかたならぬちぎりのこころして物語有。」とある。家康の孫でもあった崇法院との再会は、しとやかでしっとりしたものであった。従姉の法乗院とではどうかと想像すると、その記述がないのでわからないが、しとやかな遠慮が少し省かれたようなものではなかったかと思われる。

 

276)公ばしみなでし子の露もやなぎ色も 世にあふ我が身契よろこぶ

  (こうばしみ なでしこのつゆも やなぎいろも よにあうわがみ ちぎりよろこぶ) 

(釈)こうばしみ人と、なでし子の命も救われ、妹のやなぎ色もみんなが世に出て会うことができたこと、我が身の前世からのご縁であったと契の深さを喜ぶ。

忠廣解説

この歌の作意、以前に書いた端書きがあるのだが、この歌を書きながら熱が入り、端書きに書いておいた次第も忘れ右のように書いたのである。

訳者解説

命が危うかった光正公が無事に解放され、母親の崇法院も妹のやなぎ色も、拘束のない自由な世に出て喜びに浸っている様子を詠ったものだ。このような事が実現したのは、前世からの忠廣公のご縁のおかげと感謝しているのである。

この後の光正公の足跡については、『崇法院を探せ!「塵躰和歌集」を読む()』(加藤清正歴史研究会、本ホームページ中)をご参照のこと。

この稿続く。

令和4115