寛永十癸(みずのと)酉(とり)年八月三日の哥に言へり

(279)にしのかた秋来てひかりさし出づる 三か月影のながめたえぬ世

  (にしのかた あききてひかり さしいずる みかずきかげの ながめたえぬよ)

(釈)秋の月の光は西の方から差し込んでくる。その三か月の影の美しさ、この世は何とすばらしい。

忠廣解説

この哥の作意、「三か月は西から秋の光を」、と言った連歌が前からあったのを思い出して、言葉つづきに「三か月の影、詠めたえぬよ」と続けた塵躰和歌集の形である。

訳者解説

秋になると月の光は西の方から差し込んでき、その月影が忠廣公のいる庭や縁側の端居になんとも美しい影を投げかけるのであろう。光正公に対する不安から解放された忠廣公は心底その美しさを賞味することができたのである。

 

同四日

280)あまつ空めぐみを民におく露の 田面のいねもほに出るころ

  (あまつそら めぐみをたみに おくつゆの たのものいねも ほにでるころ)

(釈)大空の恵みが民の上に露となって降り注ぐ。遥か彼方に広がる田面(たのも)の稲に穂が出るころに。

忠廣解説

この歌の作意、あまつ空が人々に恵みを下さっていることを思って、稲が穂に出る喜ばしい時なので、そのことを思って書いた塵躰和歌集の形である。

 

訳者解説

平明でのびやかな歌だ。やはり光正公の解放が、忠廣公の緊張をどれほど和らげたことか容易に想像できる。忠廣公が初めて民という言葉を口にしたのも、彼の心をがんじがらめに絡めとっていた心の規制が外しとられたからであろう。

 

寛永十癸酉年八月五日の歌に言う。

281)鹿のねも身にそへてきく奥里の あきのさびしさ猶うきすまひ

  (しかのねも みにそえてきく おくざとの あきのさびしさ なおうきすまい)

(釈)鹿の鳴く声も我が身の上に添えて聞くと、奥里の秋の住まいの寂しさがいっそう身に染みる。やるせない憂き住まいよ。

忠廣解説

この歌の作意、秋の初めとなると、奥山近くに住む我が一人寝の床に、妻恋う鹿の声がなぜかしら物憂い声で、お互いの寂しい身の上を慰めるように聞こえ、鹿の寂寥の心を思いやってうら寂しく聞いていると、いっそう秋の奥山住まいの辛さを感じる深い心で詠んだ塵躰和歌集である。

 

訳者解説

奥山里に住む身の秋の夜の寂しさが切なく、仲間とも妻とも離れた一頭の牡鹿が、自分の置かれた境遇とまるでうり二つの牡鹿の声が、自分のさびしい仲間であるかのように感じられている。孤独な鹿への稀なる共感がこの歌の心であろう。

 

282)つくしより風のたよりにきくちのり ふる郷物ぞかりのをとづれ

  (つくしより かぜのたよりに きくちのり ふるさとものぞ かりのおとずれ)

(釈)筑紫より風の便りと共に菊池のりが届いた。故郷の名物ぞ。かりそめの故郷の訪れ

よ。

忠廣解説

右の哥、八月六日に書いた歌である。この歌の作意、この頃おい、ある法師がなつかしい地方から奥里近くまで来て故郷の音信を伝えてくれた。ある人がこの菊池のりというある所の名物をこの法師に言づけてよこしてくれたので、風の便りに、かりそめの故郷の便りにいろいろなことを聞いていると、気持ちも落ち込み、その所もそこに住む人々の有様も切ない話ばかり聞いてこう書いたのである。

これを書いている硯は、寛永十三年丙子の年の五月廿日に買ったものである。

 

訳者解説

熊本から一人の僧がある人から言付かった土地の名物の菊池のりをもって忠廣公のもとを訪れたのである。この菊池のりを持たせた人はだれであろうか。おおいに間違っているかもしれないが、私の思いとしては、あま姫の母浄光院(竹之丸殿)が菊地氏の出であることから、浄光院、あるいはその家族ではないかと思うのである。清正の妻である浄光院は忠廣公の母である。実子ではないが子供の忠廣公を案じて、あるいは祖母が忠廣公が好きだった菊池のりを持たせたのではないか。

法師が語る故郷の話を聞くにしたがって、忠廣公の気持ちは沈むばかりであった。加藤家の改易によっておよそ1200名の家臣とその家族らは離散し、路頭に迷う人たちも多かった。彼らの悲惨な消息を聞かされると気持ちは落ち込んだであろう。すべては自分のせいでこうなったのである。家族を含めると約6000名以上の人々の生活を奪ってしまったのである。できることならすぐにでも熊本に戻って彼らに手を差し伸べたい。しかし自分は今、自分の子供の命すら守ることのできない人間なのである。この思いは死ぬまで彼に付きまとったことであろう。

この稿続く。

令和4117