同七日
(283)しきたゑの錦の野辺ぞ千とせまで 千草の花にさくをみなへし
(しきたえの にしきののべぞ ちとせまで ちぐさのはなに さくおみなえし)
(釈)千草の花に彩られた敷布の錦のような野辺よ、永遠にであれ。なかでも、千草の中に背筋正しく咲く女郎花。
忠廣解説
この歌の作意、定家卿がお詠みになった哥に
秋ののの千草の花はをみなへしまじりておれるにしき成りけり
(秋の野の千草の花は、女郎花も中に交じって、それはまるで錦のようだ。)
とあった古哥の心を思い出し、ものを祝う哥とした。
これは以前から感じていた歌の心を思い出して、言葉つづきに凛とした女郎花の姿に心魅かれ、深い様々の思いを込めた。硯は右と同様である。
訳者解説
本著の校訂者である徳川氏の注釈がある。それによれば、忠廣公が定家の作と思い込んでいたこの歌は、実は紀貫之の作品であったという事である。引用すると、
「忠廣は定家筆の貫之集を秘蔵してゐたらしい。但し、完本ではなかったであろう。それを定家の自詠歌集と誤認してゐたと思はれる。」
忠廣公は定家のファンだったようだ。定家の書を夜中じゅう飽かず眺めた記述があったことを記憶している方もおられるであろう。
錦のような野辺の花々の中でもスックと目立つ女郎花に心打たれたのであろう。忠廣公が深い思いを込めたこの作の女郎花は何を現し、あるいは誰の象徴なのであろうか。
同八日
(284)千とせふる露の玉をぞ撫子の 花も色香もふかきわが袖
(ちとせふる つゆのたまをぞ なでしこの はなもいろかも ふかきわがそで)
(釈)数千年を経る玉のごとき露を撫子の上に、その花の色と深き香りは我が袖にとどむる。
忠廣解説
右の「千とせふる」の言葉の意味は前々からある古哥の心を思い、言葉つづきに美しく晴れやかな形にしたい、また他の事ではなく深い様々の思いもあるべきだ。理(ことわり)はここに書いたとおりである。この文字を書いた硯は、鶴岡で寛永十三丙子年五月二十日に取り寄せて買ったもので書いた。
訳者解説
この歌、意味がよくわからない。撫子とあるので、もしかしたら光正公を詠ったものかもしれないが、この歌から直接それを伺うことはできない。
とは言え、「千とせふる」、「露の玉」、「撫子の」の三つの言葉を並べてみると、私には撫子、すなわち前世の縁で解放され世に出た光正公の子々孫々が千年もの長きにわたって栄えてほしいという忠廣公の祈りの哥であろうと思うのである。
解放後の光正公は、金森公のおかげで無住であったお寺に入り、現在に至るも子孫の方は僧職を続けられ、世に貢献しておられることを、ここでお伝えしておきたい。『「塵躰和歌集」(2)を読む』参照の事。
同九日
(285)秋霧もはれてさやけきおとこ山 神のめぐみをうけて世にあふ
(あきぎりも はれてさやけき おとこやま かみのめぐみを うけてよにあう)
(釈)行き来に難渋する秋の霧もようやく霽れて、おとこ山が澄んだ姿を現した。いよいよ神の恵みを受けて世に出る時だ。
忠廣解説
この歌の作意、八幡宮神の御めぐみをうけて、光正が「世に出て望みや思いがどうか叶いますように。」と祈った哥である。あらゆることに秋霧に覆われることなく、さわやかに晴れた青空のように、浮世の中の憂きことがすべて晴れ渡り、千とせまでも御めぐみを受けて安心して住める世に巡り合うことができるように、という祝い哥の心なのである。
訳者解説
この歌と忠廣解説を読んで前の歌に戻ると、その作意がよくわかる。私の初めの解釈に間違いはなかったようだ。
同十日
(286)岩清水ながれも清くすみわたる 野山の末もすず虫のこゑ
(いわしみず ながれもきよく すみわたる のやまのすえも すずむしのこえ)
(釈)岩間から湧き出る岩清水の流れも清らかに澄んで、遥か山の末からも神々の声のようにすず虫の声が聞こえる。
忠廣解説
この哥の作意、岩清水の流れも清く、末々までの者たちに心を致し、濁りなく済んだ世の中でありますようにと、頼み祈った塵躰和歌集である。どの歌も言葉つづきで、このように心も岩清水の流れ流れの末までも清らかで、また、すず虫の声とは神の声の心あるので、こう書いたのである。私の様々な深い思いが込められた哥だ。
訳者解説
世に出た光正公の未来と、子々孫々までの繁栄を神に祈る歌であろう。岩清水の流れも末々(の子孫の人々)まで清く澄み渡り、神の声を宿すすず虫の声も「野山の末」(に住まう子孫の人々)まで響き渡るようにとの忠廣公の切なる願いを込めたものだ。
(283)~(286)の歌は忠廣公の祈りの哥だ。
この稿続く。
令和4年11月12日