おなじく十五日
(292)くもりなき月の光も名をそゑて 庭草までも玉みがく露
(くもりなき つきのひかりも なをそえて にわくさまでも たまみがくつゆ)
(釈)曇りなき月の光がいつもよりもなお一層明るく、磨かれた宝石の玉のような露が庭草の上にも光り輝いている。
訳者解説
「名をそゑて」が難問だった。次の歌の忠廣解説がヒントとなったが、間違っているかもしれない。
又、小紙に初めに書きつけてあった言の葉には、
(293)くもりなき月のひかりもなをそへて 玉ぞと見ゆる清き露萩
(くもりなき つきのほかりも なおそえて たまぞとみゆる きよきつゆはぎ)
(釈)曇りなき月の光がいつもよりもなお一層明るく、宝石の玉とすら見える萩の上の清い露。
忠廣解説
この哥の作意、名月を深く愛して楽しみにしていた八月十五夜の月、知らぬ人がいない、昔から今に言い伝えして来た、名月を詠った古哥をいっそう深く思い続けてきた。今夜の名月、清い澄み切った光、名月を浴びた庭の叢、萩の上の露までも賞玩してこう書いたのである。
言葉遣いにしても「名をそゑて」(名前を与えて)という心、いつの月よりも「なを」(なおいっそう)とも、またまたそれを歌にすることによって、様子がくっきりとするが、この塵躰和歌集一首の言葉遣い、心の奥の言葉が思い通りに筆に述べつくすことができなかったので、大方を書くほかなかったのである。
訳者解説
名月に対する忠廣公の深い思いが、巧みな言葉遣いとなって表現されていると思える。しかし、忠廣公の月への思いはなかなか我々の心に届かないかもしれない。あまりにも親密であり、その経験も思いも私たちのそれを超絶に越えている。忠廣公にとっても、言い足りない。言葉が思いに届かないのであろう。
同十六日
(294)名にめでてかくるおもひの月のわも いざよひうきよことわりもうし
(なにめでて かくるおもいの つきのわも いざよいうきよ ことわりもうし)
(釈)十六夜(いざよい)というその名を愛し、満月が欠けた月への思いも、浮世のなかにもいざよいがあり、その訳も同じで、さびしい。
忠廣解説
この歌の作意、十六夜(いざよい)の月なので、名前だけからでもまん丸い月の欠けた理由がわかって、さびしいことだが。何事にも同じような可哀そうな浮世のことごともこういう理屈なので、なお、世の中の他のことも同じように嫌なことだと思い連ねて、月が欠けるという事に関連して、同時に考えながら書いた言の葉であった。
訳者解説
忠廣公は、十六夜の月という名前から欠けた月を思い浮かべ、「うし(憂し)」と言っているのである。同じことが、この浮世での生活の中にもあると言っているのである。
残念ながらその例についての言及はない。それはそうである。わかり良いという事は、忠廣公や家族の人々にとって、いつどのような災いをもたらすかわからないからである。忠廣公自身はその災いの内容を知っていたであろうが。
忠廣公の文章の特色は、自分の思考の流れを抽象化したり省略したりしないでそのまま書き連ねるところにある。
この稿続く。
令和4年11月16日