同十七日
(295)かりそめにうゑし夏菊秋までも 奥里なれば花もながむる
(かりそめに うえしなつぎく あきまでも おくざとなれば はなもながむる)
(釈)ふとした思い付きで植えた夏菊が、予想外なことに秋になっても盛んに咲いて目を楽しませてくれる。雪深い奥山里のことなので、こんなふうにいつまでも咲いているのだろう。
忠廣解説
この歌の作意、奥山里の庭に、夏菊を植えて、夏になったら眺めようと思っていたところ、夏の末から八月中半を過ぎても花が咲いていたので、しかも繁りあう菊の青葉までも色々な趣があった。この国は雪が深いので、木草も花の季節もよその国とは違っているのであろうかと思い、この歌を書いたこの日に夏菊を眺めていたのだと感慨を覚え、後々の物語の種とも思って詠み置いたものである。
訳者解説
あまり期待もせずに植えた夏菊が、思いがけずに秋深くまで咲き続いていることに驚き、雪深い奥山里の事だから郷里の熊本や江戸とは違うのだと納得しているのであろう。
この「塵躰和歌集」のもととなったものは寛永九年六月から寛永十年九月八日までの間にほぼ毎日のように書いた歌を、その三年後の寛永十三年に、その当時のことを深く思い出して当時の「歌の作意」を解説したものである。私の訳文で恐縮だが、上の忠廣解説で、一部時制が異なっている所があるので、混乱しないように指摘しておきたい。
つまり、「この歌を書いたこの日に夏菊を眺めていたのだという感慨を覚え、」という私の訳文に相当する部分は寛永十三年の「歌の作意」を書いている忠廣公の感想であり、それ以外の部分はすべて歌を書いた時のことを思い出して書いた「歌の作意」そのものであると思われる。鍵カッコにした部分を挿入節のように考えて読んでいただければわかり良いと思う。
同十八日
(296)いはし水ながれの末のわれらまで まもらせたまえ八はたその神
(いわしみず ながれのすえの われらまで まもらせたまえ やはたそのかみ)
(釈)石清水八幡宮の神様、その水の流れの末の我らまで、お守りください。
忠廣解説
この歌の作意、この月は八幡の祭りのある月なので、岩清水の澄んだ流れの末々まで神の守りを受けて世に出、一門の者が安心して栄え喜び合えるようにと思う願いなのでこのように書いたものである。清く澄んだ流れの末々であるならば、近い将来世に住むことのできる身となるはずであろうと、そのことを頼み思う心があったのであろう。
訳者解説
京都にある石清水八幡宮の祭礼が八月にあったという事であろう。「石清水の澄んだ流れの末々」とは、加藤家に罪はない無辜であると言っているであろう。次の「一門の者」は、原文では「一門安樂にさかへよろこびあふやうに」となっている。
2022(令和4)年の現在から約390年前に忠廣公が祈った神への願いはどうなったであろうか。私の知る限り忠廣公の願いは叶った。
徳川の血を引いた光正公はこの和歌集に見られるとおり解放され、朝戸家としてご子孫の方が飛騨高山に現存しておられる。(朝戸家資料の参照要す)
藤松正良公は、忠廣公の死の翌年、光正公と同じような形で解放されたのち、家臣と共に長く上州沼田の新田開発に尽力し、現在は後閑家として現存しておられる。(「藤松正良公が咲う」参照)
また、これは歴史の番外編となるのであろうが、庄内鶴岡で忠廣公と従妹のしげさんとの間に生まれた二人の子供(男子と女子)の子孫は、それぞれ加藤家として現存している。大正昭和の時代に、女性の理学博士として知られた加藤セチさんはその中の一人である。
もう一家付け加えると、酒井公の家臣だった富樫新左エ門の娘との間に生まれた子供は男女不明ながら、現在も山形県に富樫家として現存しておられる。加藤家と富樫家は昭和の時代に至るも婚姻を通じて親戚であり続けた。
しかしながら、忠廣公と光正公に対する嫌疑はいまだに残ったままである。一度喧伝せられた歴史を変えることは不可能な事であろう。だから、せめてこの翻訳を鶴岡市本住寺の忠廣公墓前に捧げるのみである。
この稿続く。
令和4年11月19日