同じく六日の哥に、

316)月花も心によりし詠め也 いかでなげきのたねも成るらん

  (つきはなも こころによりし ながめなり いかでなげきの たねもなるらん)

(釈)月や花の眺めの姿は、見る人の心のさまを映すのである。どうしてそれが嘆きの種にもなるのであろうか。

忠廣解説

又「いかでなげきの友とも成るらん」(どうして月が一緒に嘆く友にもなるのであろうか)としようか迷ったが、たねの言葉は常には珍しいのでこれを書いた。

訳者解説

忠廣公の哥は、発想に奇や衒いがなく、思ったことを思った通りに書いているようであ

る。時にはその哥が巧まずして哲学や歌論になっていたりする。そういう意味で江戸初期の人ではあるが、我々の感性に近いのではないかと思うのである。

 その一つとして、忠廣公は和歌や俳句を系統的に学んでいないと思われることである。そのせいで、忠廣公の哥には、伝統的な和歌的な感じ方や形が能う限り少ないのである。

いわゆる歴史的仮名遣いが時として、現代仮名遣いと同じになっていたりする。同じ熊本藩の藩士だった西山宗因は忠廣公より56歳下であるが、八千代城代家老の加藤正允に才能を見込まれ京都で歌学を学んでいたから、仮名遣いを間違えることはなかったし、文章も明晰で、主語と述語がどうしても合わないという事もなかった。

忠廣公の文章は読むのに困難を伴うが、その内容は極めて新しいと私には思われるのである。

 

小紙にはこうもあった。

317)月花も心によりしながめ也 なげきのたねにいかで成るらん

(つきはなも こころによりし ながめなり なげきのたねに いかでなるらん)

(釈)月も花も自分の心を反映した詠めである。それがどうして嘆きの種になるのであろう。

忠廣解説

この哥の作意、秋には、月以上に眺めが美しく心魅かれるものはないであろう。花も、志や思いを述べる春の時は、いっそう美しく見えるのはもっともの事であるが、心が沈んでいる時はそれほど心に沁みぬものなので、何においてもどんなものでも心の状態によって詠め時があるであろうと、思ったのである。万事万物を思いこう書いたのである。言葉つづき、言葉の美しさを第一にした塵躰和歌集のさまである。

訳者解説

下の句「なげきのたねにいかで成るらん」は、疑問あるいは反語の両方の意味が考えられるが、文意から反語であることが明らかなので、私はかえって疑問で訳しておいた。

上の句「つきはなも こころによりし ながめなり」の、これほど凝縮した表現は見事なものであろう。忠廣公の哥には、この類のいわば凝縮表現はなかなか多いのである。

 

おなじく七日の哥に、

318)うきときはなげきおもふもかくばかり 露の契に語りあふべく

(うきときは なげきおもうも かくばかり つゆのちぎりに かたりあうべく)

(釈)嘆き悲しみ心が沈む時は、哥にするだけである。たまさかに露の命が生き永らえた時語り合うために。

忠廣解説

この哥の作意、秋の景色、言葉を尽くして書くだけである。

訳者解説

 やはり忠廣公の哥は、赦されて世に出た時に、皆でささやかに語り合うために書かれたものであった。

 

同八日

319)ひとりねのねらぬあきの枕には 虫のなく音もなを色々にきく

(ひとりねの ねられぬあきの まくらには むしのなくねも なおいろいろにきく)

(釈)ひとり寝の寝られぬ秋の枕許に聞こえてくる虫の鳴き音は、それでもさまざまに聞こえる。

忠廣解説

この哥の作意、八月廿六日の夜の一人寝の寝られぬ床の枕許に、虫の鳴く音はなお、いろいろ様々に聞こえてきた。心が一人澄んで、物思いにふけっていると、虫のなく音も時によって美しく聞こえるものだが、今憂き一人寝の床の枕にひびく虫の音は、こんなものであったかとの思いで、九月八日の哥に書き付けた塵躰和歌集である。

訳者解説

寛永九年六月十六日に、大石田に着いた時から、一年と三か月にわたって書き継がれてきた塵躰和歌集はこの日、一人寝の床で虫の音を聞きながら、突然歌うことをやめてしまった。

忠廣公にとって作歌は、この孤独の営為は希望をつなぐ営みであった。彼はみちのくの里にあっても許されて世に出る日を待ち望み、希望を失わなかった。世に出ることにむしろ楽観的ですらあったのではないか。家光公は彼の義理のおじであり、妻の崇法院は家光の姪であった。しかもこの改易に、忠廣公には何の落ち度もなかった。忠廣公の家族観で言えば、赦される希望の火は消えていないように思われた。

赦されて世に出た後にみんなで語り合うために書き続けてきた。しかし世に出る希望が失われたとき塵躰和歌集を書き続ける意欲も書く意味も消えてしまった。

忠廣公の憂き一人寝の枕許に聞こえてきた虫の音は、暗く、皆一様に、失望、失望と言っているように聞こえていたにちがいない。

これが塵躰和歌集の痛ましい結末であった。希望を失った忠廣公のその後の人生を思い浮かべるよすがはほとんどない。しかし彼は従妹のしげさんとの間に、一人の男子と一人の女子をつくった。誰でも想像できるように、忠廣公も人生の次のステップに歩を進めていったに違いない。      了

令和4125