素性法師 古今四七
8.散るとみて有へき物を梅の花うたて匂ひの袖にとまれる
(ちるとみて あるべきものを うめのはな うたてにおいの そでにとまれる)
(私訳)もう散るとみて放っておけばよいものを、なまじ慣れた手つきで触れたために、様変わりした梅の花とは思えぬひどい匂いが袖についてしまった。
元斎解説
うたてとは(方偏の「族」の矢の字の所に虫が来る)の字である。うたてとは花ほんらいの匂いではない。花のおくびである。慣れたために不注意に梅の香を袖に着けてしまったのである。花に限らず万事において無用のことに心を深くとどめると、必ずや苦労となる。
訳者注記
またしても木戸元斎の武人としての側面が強く表れているようだ。これも教戒の哥という事になろう。元斎がおくびと言っていたものは遠慮なく言えば、腐臭という事かもしれない。
読人不知 古今五〇
9.山たかみ人もすさめぬさくら花いたくな侘そ我みはやさん
(やまたかみ ひともすさめぬ さくらばな いたくなわびそ われみはやさん)
(私訳)訪れる人のない高山ゆえに、褒められることもなくひっそり咲く桜花よ。そんなに寂しがるな。私が観てお前の美しさを誉めそやしてあげるから。
元斎解説
すさめるは賞玩の意味である。愛の字である。世間では「荒(すさ)む」(あれる)として使うが、ここは違う。
高山なれは人ももてあそはなねとも花な侘そ我もてあそはんと也。
文選に言う。賢女は栄えあるを好む、愛あるを好む。
上の句の五文字、別本に「里遠し」ともあった。
訳者注記
元斎の解釈はそのままで何の装飾もない。
参考までに、新潮日本古典集成 古今和歌集50の現代語訳をつけておくことにする。
(新潮社訳)山が高いので、誰ひとり賞でる人とてない桜の花よ、そう悲嘆に沈むことはない。この私が、お前の美しさをもてはやしてあげるから。
「山たかみ」の「み」は原因・理由を表す接尾語なので、「山が高いので」と訳すのが普通であろう。
権中納言定家 拾遺愚草 二一四三
10.春霞かすめる空の難波江に心有人や心みゆらん
(はるがすみ かすめるそらの なにわえに こころあるひとや こころみゆらん)
(私訳)春霞で霞む空の、美しい難波の入り江に佇みながら、歌心有る人よ、歌を作ってみて下さい。
元斎解説
本歌の情趣を解する人に、津の国の難波の入り江の春の景色を見せたいものだ。このような所で詩を作り哥を詠み管弦を催して自分の心を見せるべきである。ところが道を究めた人と言えども美しい景色を迎え入れ、その風景の中で、自らの思いや志を明らかにしたなら、ひどいことになるであろう。
初めの五文字、この哥では霞のかは濁るべきである。
訳者注記
元斎解説で、前半と後半が真逆になっているので、文意を明確にするために、原文にはない、ところが、という逆接の接続詞を入れて訳した。
春霞に霞んだ難波江の美しい風景の中で歌を読むことは、道を究めた人と言えども至難の業である、ということか。
同定家 拾遺愚草二一七四
11.名取川春の日数はあらはれて花にそしつむ瀬々の埋木
(なとりがわ はるのひかずは あらわれて はなにぞしずむ せぜのうもれぎ)
(私訳)花が咲いている間の春の日数は、名取川の水に洗われて、水面に浮かぶ花にうずもれた、瀬々に姿を現した埋もれ木を見れば知れる。
元斎解説
花咲く日の春の日数は、花にのみ心奪われてみる人もいないので、瀬々の埋もれ木を見て知るのである。これは異説である。定家の奥義は「水にこそ埋木」(埋もれ木よりも流水と落花こそ)というように、花が散り水に浮いた花に埋もれる埋もれ木。花が散ってしまうことをもって、春の日数を知るという事である。
訳者注記
もともと、名取川は「名を取る」から、「人の噂に上る」という意が託された恋歌に好まれる枕詞とのことである。安東次男「藤原定家」によって「名取川」の本歌となる哥を引いてみる。新潮日本古典集成から引用する。(古今集 650)
名取川 瀬々の埋(むも)れ木 あらはれば いかにせむとか あひ見そめけむ
(新潮訳)名取川の浅瀬ごとに姿をあらわす埋れ木のように、二人の仲が世間にあらわれ浮名が立ってしまったら、その時はいったいどうするつもりで、あなたに逢い初めたのであろうか。
ところが、本書の「春哥」に入れられているところからもわかるように、定家の「名取川」
の哥は恋歌ではない。
「藤原定家」から続けて引用すると、
「日数を経て名を取るものは朽ちた恋ではなく川面の落花だ」。「川の縁語を利かせて、ものの風情が現れるのは洗われるからだ」。「それにふさわしいのは、埋木などであろうはずがない。沈めるに流水落花を以てしたゆえんである。」(前掲書文庫版p175~176)
この稿続く。
令和4年12月25日