同

12.わすれはや花に立ち迷ふ春霞それかとみえし明ほのの空

(わすればや はなにたちまよう はるがすみ それかとみえし あけぼののそら)

(私訳)忘れてしまいたい。咲き乱れる櫻花に立ち迷う春霞。春霞と見えた曙の空を。

元斎解説

源氏の野分の巻きで紫の上を、夕霧の大将がご覧になって、「春の曙の霞の間よりは桜が咲き乱れた様子を見るここちする」とおっしゃった。わすればやとは一見執着心のないことのように見えるが、その反対で思いの強さを言っているのである。それで歌の心は知れた。

訳者注記

夕霧とは、光源氏と葵上の間にできた子である。

曙の空とは、当然「後朝の別れ」の時に見た空に、春霞が漂っているように見えたということであろう。だから思いが強いのだ。元斎は細かいことは言っていない。「哥の心は聞こえたり」というのみである。誰にもわかることであろう。

 

勝命法師 新古今六七

13.雨ふれは小田のますらおいとまあれや苗代水を空にまかせて

(あめふれば おだのますらお いとまあれや なわしろみずを そらにまかせて)

(私訳)雨が降れば、田で働く男たちに暇ができるだろうか。苗代水を撒く手間もなく、空任せにできるからね。

元斎解説

雨が降らねば、暇なく苗代水を引き続けるという事。まかせて(水を撒く、天に任せる)という言葉遣いが苗代の縁語になっていて見事である。

訳者注記

小田の小は、だんぼの美称。

 

権中納言定家 拾遺愚草員外 一一四

14.是までもこころこころは別れけり苗代水もをのがひきひき

(これまでも こころこころは わかれけり なわしろみずも おのがひきひき)

(私訳)これまでもすでに二人の心は離れてしまった。苗代水もおのれが一人で引き引きしたよ。

元斎解説

哥はすべて最初の五文字が大切なのである。「是迄も」で既に千万のことを言っている。苗代水でさえおのれの威勢が良いほど引くのである。無威の者は浅ましい。

 

訳者注記

安東次男によれば、「これは俳諧歌、連歌の姿」(前掲書)という事になる。上の句と下の句が俳諧連歌の発句と脇句の関係のように意味が遠ざかって見える。そこが未来的で面白い。

 

皇太后宮俊成 千載七六 春上・長秋詠藻二一二「花」

15.三芳野の花の盛を今日みれは越の白根に春風そ吹

(みよしのの はなのさかりを きょうみれば こしのしらねに はるかぜぞふく)

(私訳)三芳野に花が咲いているのを今日見たよ。越の白根にも春風が吹いているのだろう。

元斎解説

雪と言わないでも雪の景色が目に浮かぶ。作者の卓越した技である。得学の人でなければ、これを学ぶことはできまい。

訳者注記

三芳野は、み吉野、奈良県吉野町。越の白根は、吉野から見える山々、富山、石川、福井、岐阜の各県にまたがる山々を指す。

この稿続く。

令和41225