同二十八日
(273)しなのなるこはぎにそへてさく花も 露しほれけん山影のには
(しなのなる こはぎにそえて さくはなも つゆしおれけん やまかげのにわ)
(釈)信濃にいる小萩に寄り添って咲く花も、日の当たらない山影の庭では、命しおれたれることであろう。
忠廣解説
この歌は同じ年の七月廿日の夜に、あまりにも寝られぬ物思いのために起きだして、夜更けてから月を唯一の友として眺め、はるかかなたの空の向こうにいる家族のことを思って、家族のいる方向を眺め思い、あれこれと物哀れと共にしみじみとした感慨にふけり、これを作った歌のことは、小萩に咲きそう花、山影になり日の当たらない庭などを思い入れて書いたものだ。深い訳はこれ以上言えない。
右の歌の作意、人に言えない深い思いがあった。
「そへて(添えて)」を「そひて(添いて)」とも言いたかったのかもしれない。「山影」の言の葉を書いた日の手習い書の百人一首の中にあった歌の、貞信公の歌を初めて書きおさめた、また藤原興風の歌も書いていた。
この中の公の文字、「松も昔の友ならなくに」とある友の文字、いずれの文字も今日ここで出会えたことを心底うれしく心が晴れる思いであった。
訳者解説
「しなのなるこはぎ」とは、藤松正良公の事であろうし、「花」はその母の法乗院である。この際女子に見せかけて実は男子である。飛騨高山の光正公の身の上に起こりつつあることが、今まさに信濃の藤松正良公にも起ころうとしているのではないかと、父親としての最大級の不安に襲われていたのではないかと思われる。
藤松正良公に対する徳川の情報は全くなかったのであろう。しかし、妻や子供たちの住まいが山影になり日当たりの悪い場所であることは、前々から家臣の報告で知り心配していたであろうと推測できる。
我が子に対する救済の手段を完全に封じられた身の忠廣公にできることは、ただ祈ることだけである。様々な祈りが時としてかすかにかたづくられていくことがある。忠廣公はそれを見逃さない。それは迷信深さのようにも見える。しかし忠廣公は祈りがかなえられるその標しを我が慰めとするのである。
「公」が何を意味するのかよく分からない。「松」は藤松正良公と一致する。「友」もよくわからないながら、何か良いことを思わせる言葉であろう。頂点に達した忠廣公の心配と不安はこうして、ひと時和らげられるのである。
同二十九日
(274)毛頭川いねつむふねぞもろともに のせてこぐらめあまのいなづま
(もがみがわ いねつむふねぞ もろともに のせてこぐらめ あまのいなずま)
(釈)最上川の稲を積む稲船は、稲妻と共に天の電と一緒になって漕いでいるのだろう。
忠廣解説
この歌の作意、古歌にも「最上川にいなふね(稲船)」という言葉つづきに詠んだ歌が多い。そうであるので、最上川の上り下りには稲と一緒に稲妻も乗せて漕ぐのだろうと思ったことから、このように言葉つづきに読み置いたのである。
訳者解説
最上川で稲の刈り取りの頃電(いなずま)が頻発することから、電(いなずま)は稲妻(いなずま)ととらえ、稲が良く実る良い兆候と考えられていた。忠廣公がここでなぜこのような歌を書いたのかわからない。
一つ考えられることは、現実に電が天に光ったことから、忠廣公が、光正公にとっても良い兆候ととらえたという事であろうか。
この稿続く。
令和4年11月2日