寛永十癸酉年八月二十一日

299)秋霧の野山も里もおぼろげに 空もひとつにふる雨の庭

 (あきぎりの のやまもさとも おぼろげに そらもひとつに ふるあめのにわ)

(釈)野山も里も秋霧によっておぼろに霞み、空も地も混然ひとつになり、わが庭先も水に浸された水庭(みずにわ)となる。

忠廣解説

この哥の作意、この日はとても物侘しく雨気勝ちで、山も野もわが奥里庭までも霧で立ち覆われ、前がぼんやりかすんで空も地も見分けつかない激しい雨を見、庭の景色がなおさら物憂く見えるのを読んだ塵躰和歌集である。

 

訳者解説

忠廣公が住む屋敷の中から、花々を植えた近景としての寒々とした庭、さらにはるか先まで続くより広い庭、その先のまばらな人家、そのはるか遠くに連なる山々が遠景となり、強い雨と濃霧によって空と大地の見分けがつかないくらいに、混然と影のようにかすんで見える。そんな憂鬱な雨の日を描いた叙景歌だ。歌そのものはシンプルだが、これから来る困難な季節の到来を予感させる鬼気迫る作品と言ってよいのではないか。

 

同廿二日

300)おもはずもこのいれ物にしかの硯 はぎのうは露かよふ契か

  (おもわずも このいれものに しかのすずり はぎのうはつゆ かようちぎりか)

(釈)鹿の絵が描かれた手箱に、たまたま過ぎ越し方から持ってきた鹿の硯が思いがけずぴったりと合ったのである。まるで二つの鹿と鹿の絵の間に命が通っているようではないか。

忠廣解説

この歌の作意、鹿の絵が付いた手箱に、たまたま持ってきた鹿の絵付きの硯箱を、過ぎし方よりの記念に持ってきたものなので、この手箱に入れて手になじんでおり折見てみるとその絵がなんとしっくり合っていることかと不思議に思い、このように思い続けてその心のあらましを書いたものなのである。

訳者解説

「はぎのう」の意味が分からない。当時は普通に使われていた言葉であろうが今は分からない。係助詞「は」が付いていることから、主語の「はぎのう」はすでに話題になった自明な内容であることがわかる。そこから、鹿と鹿の何かは、と見当をつけて訳した。

このような不思議な一致(coincidence)は、やはり誰の心にもしみる物であろう。

 

同廿三日

301)としへぬるみまきのさとのうつわ物 みつのうきもに露むすぼふる

  (としへぬる みまきのさとの うつわもの みずのうきもに つゆむすぼふる)

(釈)年を経、古びた一族の里の器物。水に浮かぶ浮き藻に露ができている。

訳者解説

「みまき」は「身まき」:血統の同じ一族。身うち、と辞書にある。

「みまきのさと」とは、次の哥に「水のこまきのうつわ物」とあるところから、尾張の国小牧と理解した。信長、秀吉、清正の里として間違いなかろうと思ったのである。

それにしてもこの哥、和語が巧みで、じつに美しい調べだ。

その美しさの源を問うと、西洋の詩の技法が、巧まずして用いられていることがわかる。一つ、脚韻(rhyme)、二つ、頭韻(alliteration)

(としへnuru  miまきのさtono うつわmono   miずのうきもに つゆむすぼfuru

 Nuru,furu/ tono,mono がそれぞれ脚韻をなしていると考えられる。二つのmiは微妙だが頭韻と言えるか。美しく響きあっていればそれでよいのである。

 

  又、こうも書いてあった。

302)としへぬる水のこまきのうつわ物 露手にふるるなさけ中たち   ともあった。

  (としへぬる みずのこまきの うつわもの つゆてにふるる なさけなかたち)

(釈)小牧産の水に浮かべる古びた器物(うつわもの)。そのうえに置かれた露が手に触れると、過ぎ去った古い歴史に触れた思いがする。

忠廣解説

右の「中たち」のことばは、初め小紙に書いてあった。翌年に水に浮かんでいる物と露の景色を詠もうと手に触れてみたところ器物であることがわかった。この時名所の里の名前を聞いたことから、思い続けてきたのであった。

訳者解説

第一この「中たち」がわからない。「仲立ち」であれば、二者の間に立って事を取り持つこと。また、その人と辞書にはある。

こまき→みまきのさと=信長、秀吉、清正→としへぬるうつわ物→忠廣公

と並べて考えてみると、

忠廣公は、水に浮かぶ「としへぬるうつわ物」に触れることによって、信長、秀吉、清正たちの古い歴史に触れる思いがした、という事になるだろうか。

 この稿続く。

令和41121