同廿七日
(306)奥ざとは風よりほかのおともなし 外面の小田も猶秋ぞめく也
(おくざとは かぜよりほかの おともなし そとものおだも なおあきぞめくなり)
(釈)我が住まう奥里は、風の他に訪れる人もいない。外面の方にある小さい田もなおさらに秋めいているよ。
忠廣解説
この哥の作意、この頃激しい嵐がやってくるにつけて、ここは奥山里のゆえに、時々訪ねてくる人もいないので、風よりほかの音を聞くことはないと思い、また田の面に嵐の去った跡があらわで、それを見ると今いっそう秋深しの物憂さがつのる。そんなことを思いながら我が世住まいを眺めてみると、なんと侘しく、悲しい、と思って詠んだ言の葉のさまである。
訳者解説
熊本城の城主だったものにとって、見る物手に触れるすべてのものは侘しく、憂鬱でないものはなかろう。
同廿八日
(307)あきわびていまはひとへに鳥のあとを をきふしになく 友千どりなり
(あきわびて いまはひとえに とりのあとを おきふしになく ともちどりなり)
(釈)飽き詫びて、今はひたすら鳥たちの跡を追って、寝ても覚めても泣くばかりの友千鳥なのだ。
忠廣解説
この哥の作意、奥山ざとに、いよいよ住(すみ)憂(う)くなったので、なお飽き詫びて、友となるべきもの、いかなる方面においても何一つなく、この言の葉の哥だけが、起き伏しに心が通じる友になるのであろうか、という思いでこのように詠んだのである。珍しい言であろうか。
訳者解説
忠廣公がほぼ一年間にわたって詠み続けてきた歌を読んでくると、いろいろなことがわかってくる。この和歌集が、そもそも友人というものがいない忠廣公の唯一の友であること、誰にも触れることのできない孤絶の中で自分と真っ正面から向き合う、向き合ってくれる友であったことがここで明かされているのである。
それにしても、大きなかさばった生き物ではこのような孤独に耐えることはできない。小さな小鳥たちだけが群れを成し、忠廣公の孤独を分け持って軽やかに飛び立つことができるのだろう。
同廿九
(308)いづくにもさぞ名をしみて月影を 心有る人いかにながむる
(いづくにも さぞなおしみて つきかげを こころあるひと いかにながむる)
(釈)どこかにも、きっと木々の葉落ち月という意味の葉月(はづき)が終わろうとするのを惜しんで、この月影を眺めている人が、わが愛する人よ、どのようにしてこの同じ月を眺めているのですか。
訳者解説
「心有る人」とは普通、ものの情趣を理解する人といった意味であろうが、ここでは愛する妻の事であろう。忠廣公は初め法乗院や、藤松正良公、亀姫が住んでいると考えていた信濃国松代(城主真田信之)の方角の月を、飽かず眺め妻や子供たちの身を気遣っていた。そして身近に感じていた。しかし、実際は上野国沼田城主真田信吉に預け替えられていたという事があった。それで言えばやはり、「心有る人」とは法乗院を指すであろう。
又は、初め次のように詠んで小紙に書き付けた言の葉があった。
(309)いづくにもさぞ名おしみて月影を 人の心や空にすむらん ともあった
(いずくにも さぞなおしみて つきかげを ひとのこころや そらにすむらん)
(釈)どこかにも、きっと木々の葉落ち月という意味の葉月(はづき)が終わろうとするのを惜しんで、同じ月影を眺めている人が、わが愛するその人の心はその空に住んでいるのではないか。
忠廣解説
この二つの哥の作意、葉月(木々の葉落ち月)という名の月が残り少なになるのを惜しんでこう書いたのである。「さぞ名おしみて」と続けた言の葉よ、おおいに吉野山眺めの気持ちになるであろう。名月をなごり惜しんだ心、言の葉には後になってまた書く哥も雅趣があって面白いのではないか。この二ついずれも面白い歌だ。
訳者解説
光正公が無事に世に出たことによって、忠廣公の気遣いは再び、信濃(実は沼田)の家族に戻ったという事であろう。
この稿続く。
令和4年11月23日