電子辞書の説明をしても始まりませんので、自分で使ってみてどうかというと、非常に便利で有用なものだと、まず言っておきたいと思います。
私はもともと紙の辞書派でしたが、電子辞書を一度使ってみるとこのハンディさから、今では手放すことができなくなりました。
 私が一番使う状況は英文を読むときはもちろんですが、和文脈で使う機会が非常に増えています。
現在、加藤清正公の嫡男の加藤忠廣公の「塵躰和歌集」を読み進めているところですが、ここで、この電子辞書が手放せないのです。簡単に言えば、現代語、古典語を問わず、正確な訳語に素早くヒットする点がこの辞書最大の利点です。古語は何となくわかったつもりになるのでなかなか辞書に手が伸びずその結果、新しい解釈ができずにいましたが、電子辞書を頻繁にひくようになってから、隠された歴史的事実まで類推できてしまうことがあります。掛け言葉などの中にそれらがひそかに書き込まれているのを発見します。
忠廣公は配流の身として、自由な行動や言論が制限されていましたので、わが子ですら、なでしこ、小櫻、やなぎいろなどと隠語で呼んでいます。こうした場合、語そのものの正確な意味を把握することはまさに出発点であり、それなくして作者の真意に到達することはできません。
また、忠廣公は歌人ではありませんでしたので、彼の詠む和歌はその語彙が國文学、国文法の世界に必ずしも正当に開かれたものではありません。しかし、専門家ではないゆえに、その使用法は日常的な使用例の範囲内に収まる物が多いのです。そうした場合、忠廣公の使う語の正確な意味を知り、忠廣公自身の種種の使用例から、そこに隠された本当の意味を推測する事ができます。そんな時電子辞書の迅速で的確な訳語選択が多いなる威力を発揮するのです。
この点、加藤忠廣公「塵躰和歌集」を読む(3) を近日中に公開しますので、御一読いただきたく思います。
実高75万石ともいわれた熊本城主からわずか1万石の出羽丸岡城主となった忠廣公の心は穏やかならぬものがあったでしょうが、表面上は静謐で単調な生活を送る中で、静かに自然をうたうしかなかった詩作の中に、意外な歴史の一こまが描かれているのを発見できるでしょう。
研究者がほとんど存在しないこの和歌集を読むとき、分厚い辞書ではなく、ハンディな電子辞書が威力を発揮するとはだれも考えないでしょう。的確な訳語のヒット率は、英語においてのみでなく、古典文においても実に驚くべきものであることをご報告しておきたいと思います。
学習の場においては、生徒たちがこれまで経験したことのなかった領域にいとも易々と入り込んでいること、一年二年と継続した暁の生徒さん達の語彙力と表現力の伸張を想像すると今から気持ちが沸き立つ思いがします。
しかし、どんな優れた機械でもそれが適切に使われなければただの箱にすぎません。日々の学習の場で、自然な使用法を研究し、生徒たちの座右の書となり続けるよう努めていきたいと思っています。