2017.06.09 加藤清正歴史研究会
加藤忠廣「塵躰和歌集」全訳(13)英数研究セミナー加藤敦
56.春の日の長閑(のどか)なる日ぞいとゞしく ながき思ひになを思ひぞ有(あら)め
(釈)春ののどかな日がいっそう長く、終わりのない長い思いの上に、なおさらなる長い思いがあるのだろう。
忠廣解説
この二つの歌はともに春ののどかな日の光の移り変わりを眺めながら、春と云っても心に憂いを抱えるものにとっては、たとえ面白いことでも厭わしいことにおいても、いよいよ不安な気持ちが募る、そういう気持ちがあるかと見定めて書いたものだ。
吉野山の櫻は満開のさかりで、今がさぞ眺めごろであろう。
*55.56の二つの歌は同じ日に書かれ、互いによく似ている。それらから、ともに出口のない終わりのない思考が、たえず忠廣公の心底を這っていることがわかる。(加藤注)
同二十七日
57.冬になをまさるかのへのさるの日ぞ 雨やあられか寒き春風
(釈)冬に戻った様な寒い庚申(かのえさる)の日だった。雨とともに霰が降り冷たい春風が吹いた。
忠廣解説
寛永十癸(みずのと)酉(とり)年正月二十七日、庚申(かのえさる)の日だったので、そのことをまず言った。それから二十七日の昼から夜にかけて、雨霰が降りすさまじい春風が吹いたので、その時の様子を書いて後の記録にしようとしたのだろう。
同二十八日
58.二葉なる松の緑にいろそゑて ながめ久しき花の藤なみ
(釈)まだ幼い薄緑色の松の葉に藤の花房が美しく色をそえている。いつまでも見ているが、あきることのない藤の花房だ。
忠廣解説
あるいは「ながめたえせぬ花の藤なみ」(いつまで眺めても飽きない藤の花房)としても良い。この歌の作意は、思う事があって松(光正)に藤の花(藤松正良)を結いかけてみたものだ。哥の本当の意味は云えない。
*松は、光正公、藤なみは、藤松正良公とみられる。8の哥参照のこと。「ことわり筆にのこせるのみ」とか、「理、筆わざとかゝずをきける」などとある時は、忠廣公は苦しい思いで本心を韜晦しているとみられる。そういう時、花などの隠喩が家族の誰を指しているかを考えるべきである。
これまでの読みでは、「櫻」又は「さくら花」は法乗院、「小櫻」、「いと櫻」は娘の亀姫(約1歳)、「藤」は亀姫の兄の藤松正良(5才)、「松」または、「なでしこ」は光正(約16歳)、「柳」、「やなぎいろ」は光正の妹(年齢不明、15歳以下)、「香ばしみ人」は法乗院、または崇法院の時もあるので注意。既に故人で、4歳ないし7歳年長の美しい異母姉あま姫も「香ばしみ人」、「とまり櫻」と呼ばれ、しきりに登場するので注意が必要である。また、あま姫は「おもいで櫻」と呼ばれる事もある。既に故人なのでこちらはわかりやすい。(加藤注)
同二十九日
59.雲路へてわけ越しあとのことのはを かりのたよりに今ぞきくなる
(釈)雪道をかき分けて来てくれた酒井公の家臣の方が語った言葉を、その時持ってきてくれた雁(かり)のように、仮の便りとして今聞いている。本当の便りは酒井宮内殿が帰ってから聞くとしよう。
忠廣解説
今日二十九日、鶴岡から石原七郎右衛門尉が来、雁によく似た鳥を宮内殿が持って来
させた。来られた時に、「この月の十四日に江戸に着き、すぐ十五日に家光公のお目見え
が済みます」と云う。「何もとしより中申」と云って、この話を聞きこう書いたのである。
後々の話の種になるのではないかと思い書いたのであろう。
*酒井忠勝公は忠廣公の預かり人及び徳川の監視人の立場だが、二人の間には自然に友情のようなものが生じたようだ。ほとんどすべてと云ってよい、すべてを失った忠廣公にとって忠勝公とその子息の忠當公(ただまさ)との交流は、肥後の太守だった自分をまるごと認めてくれた唯一の存在としてあったのかもしれない。
ところで、「何もとしより中申」がどういう意味なのか皆目わからない。(加藤注)
この稿続く。
6月9日